・・・色鉛筆を片手に、無駄と思うところ数行ぐるりとしるしをつけ、校正のようにトルと記入し、よいと思うところには傍線を附す。至極深刻な表情を保って居る。 修善寺より乗合自働車。女の客引が客を奪い合う様子、昔の宿場よろしくの光景なり。然し、どれも・・・ 宮本百合子 「湯ヶ島の数日」
・・・寝床は妻の寝室と同じであるとしても、軽症者の静臥すべきベランダにあった。ベランダは花園の方を向いていた。彼はこのベランダで夜中眼が醒める度に妻より月に悩まされた。月は絶えず彼の鼻の上にぶらさがったまま皎々として彼の視線を放さなかった。その海・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・我らは神の名を失った、しかし我らは彼に付すべき新しい名を求めずにはいられない。彼は「意志」と呼ばれるべきであるか。「絶対者」と言われるべきであるか。あるいはまた「電子」と呼ばれるべきであるか。恐らくそれらの名は新しいパウロによって鬼神として・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
出典:青空文庫