・・・長いこと親戚のほうに預けてあった娘が学齢に達するほど成人して、また親のふところに帰って来たということは、私に取っての新しいよろこびでもあった。そのころの末子はまだ人に髪を結ってもらって、お手玉や千代紙に余念もないほどの小娘であった。宿屋の庭・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ そのうちにウイリイは、ふと、向うの方に何かきらきら光るものが落ちているのに目をとめました。それは金のような光のある、一まいの鳥の羽根でした。ウイリイは、めずらしい羽根だからひろっていこうと思って、馬から下りようとしました。すると馬が止・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・ おかあさんはねむった子どものあお向いた顔を見おろしました。顔のまわりの白いレースがちょうど白百合の花びらのようでした。それを見るとおかあさんは天国を胸に抱いてるように思いました。 ふと子どもは目をさまして水を求めました。 おか・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・なに、たったいま、ふと思いついただけのことなのである。「人間のうちで、一ばんロマンチックな種属は老人である、ということがわかったの。老婆は、だめ。おじいさんで無くちゃ、だめ。おじいさんが、こう、縁側にじっとして坐っていると、もう、それだけで・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・汽車もああなってはおしまいだ。ふと汽車――豊橋を発ってきた時の汽車が眼の前を通り過ぎる。停車場は国旗で埋められている。万歳の声が長く長く続く。と忽然最愛の妻の顔が眼に浮かぶ。それは門出の時の泣き顔ではなく、どうした場合であったか忘れたが心か・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ 私は無我無心でぼんやりしていた。ただ身体中の毛穴から暖かい日光を吸い込んで、それがこのしなびた肉体の中に滲み込んで行くような心持をかすかに自覚しているだけであった。 ふと気がついて見ると私のすぐ眼の前の縁側の端に一枚の浅草紙が落ち・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・ 話題が少し切迫してきたので、二人は深い触れ合いを避けでもするように、ふと身を起こした。「海岸へ出てみましょうか」桂三郎は言った。「そうだね」私は応えた。 ひろびろとした道路が、そこにも開けていた。「ここはこの間釣りに来・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・何処ということなく、道を歩いてふと小流れに会えば、何のわけとも知らずその源委がたずねて見たくなるのだ。来年は七十だというのにこの癖はまだ消え去らず、事に会えば忽ち再発するらしい。雀百まで躍るとかいう諺も思合されて笑うべきかぎりである。 ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・対手の心裏にふとそれを殺してやろうという念慮が湧いた。其肉を食おうと思ったのである。赤犬の肉は佳味いといわれて居る。それも他人の犬であったらそういう念慮も起らなかったであろうが、衷心非常な苦悩を有して居れば居る程太十の態度が可笑しいので罪の・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・と独り言のように言いながら、ふと思い出した体にて、吾が膝頭を丁々と平手をたてに切って敲く。「脚気かな、脚気かな」 残る二人は夢の詩か、詩の夢か、ちょと解しがたき話しの緒をたぐる。「女の夢は男の夢よりも美くしかろ」と男が云えば「せめて・・・ 夏目漱石 「一夜」
出典:青空文庫