・・・かえって私のほうが、腫物にでも触るような、冷や冷やした気持で聞いてみた。「そうです。そうです。」すこし尖った口調で答えて、二度も三度も首肯した。「家が建つのだそうですね。いつごろ建つの?」「もう、間も無く建ちますよ。立派な、お屋・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・暑中休暇がすんであたふたと上京したら、馬場の海賊熱はいよいよあがっていて、やがて私にもそのまま感染し、ふたり寄ると触ると Le Pirate についての、はなやかな空想を、いやいや、具体的なプランについて語り合ったのである。春と夏と秋と冬と・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・これが雨が一日降ると、壁土のように柔らかくなって、靴どころか、長い脛もその半ばを没してしまうのだ。大石橋の戦争の前の晩、暗い闇の泥濘を三里もこねまわした。背の上から頭の髪まではねが上がった。あの時は砲車の援護が任務だった。砲車が泥濘の中に陥・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・柔かい着物が触る。えならぬ香水のかおりがする。温かい肉の触感が言うに言われぬ思いをそそる。ことに、女の髪の匂いというものは、一種のはげしい望みを男に起こさせるもので、それがなんとも名状せられぬ愉快をかれに与えるのであった。 市谷、牛込、・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・松本から島々までの電車でも時々降るかと思うとまた霽れたりしていた。行手の連峰は雨雲の底面でことごとくその頂を切り取られて、山々はただ一面に藍灰色の帷帳を垂れたように見えている。その幕の一部を左右に引きしぼったように梓川の谿谷が口を開いている・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・しかし私はなんだか自分などの手に触るべからざる贅沢なものに触れたような気がしたので、急いでもとの棚へ返した。 その下の棚に青い釉薬のかかった、極めて粗製らしい壷が二つ三つ塵に埋れてころがっているのを拾い上げて見た。実に粗末なものではある・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・しかし松明を振る前にはそれが出ていなかったのか、またどれくらい出ていたのか、まるで私は知らなかったのだから、結局この松明の実験は全然無意味なものに終わってしまった。しかしそういう飛びはなれた非科学的の「実験」がおそらく毎日ここで行なわれてそ・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・などもhまたはfにrの結合したものである。full, voll, πλω なども連想される。 夏と熱とはいずれもnとtの結合である。現代のシナ音では、熱は jo の第四声である。「如」がジョでありニョであり、また「然」がゼンでありまたネ・・・ 寺田寅彦 「言葉の不思議」
・・・要太郎も少しだれ気味で網を高く上げて振るとバタ/\と一羽飛び出して堤を越して見えなくなった。要太郎の指をさす通りにグサ/\と下駄の踏み込む畔を伝って土手へ上ると、精の足元からまた一羽飛び出して高く舞い上がった。二、三度大廻りをして東の方へ下・・・ 寺田寅彦 「鴫つき」
・・・ただ徒らに冗漫の辞を羅列して問題の要旨に触るるを得ざるは深く自ら慚ずる所なり。これに依って先覚諸氏の示教に接する機を得ば実に望外の幸いなり。 一 ある自然現象の科学的予報と云えば、その現象を限定すべき原因条件・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
出典:青空文庫