・・・ぜんざいを召したまえる桓武天皇の昔はしらず、余とぜんざいと京都とは有史以前から深い因縁で互に結びつけられている。始めて京都に来たのは十五六年の昔である。その時は正岡子規といっしょであった。麩屋町の柊屋とか云う家へ着いて、子規と共に京都の夜を・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・此に深い矛盾がある、問題がある。しかも一度対象認識の立場に立った以上、何処までも知るというものは視野に入って来ない。実在界とはいわゆる認識形式に当嵌ったもののみである。知られたものである、知るものではない。私は古来の伝統の如く、哲学は真実在・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・かつて私は、こんな情趣の深い町を見たことがなかった。一体こんな町が、東京の何所にあったのだろう。私は地理を忘れてしまった。しかし時間の計算から、それが私の家の近所であること、徒歩で半時間位しか離れていないいつもの私の散歩区域、もしくはそのす・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・待て、だが俺は遠慮深いので紳士になれねえのかも知れねえぜ。まあいいや。―― 私は又、例の場所へ吸いつけられた。それは同じ夜の真夜中であった。 鉄のボートで出来た門は閉っていた。それは然し押せばすぐ開いた。私は階段を昇った。扉へ手をか・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・エビのエサを使って、深い海底に、オモリのついた糸をおろした。底についたらしく手に感じたとき、すぐにグイグイと引っぱられ、あわてて引きあげてみると、大きなソコブクがかかっていた。釣れるときにはこんなにあっけなくかかるのに、釣れないとなると、ど・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・そして間もなく雪に全身を包まれて、外の寝所を捜しに往く。深い雪を踏む、静かなさぐり足が、足音は立てない。破れた靴の綻びからは、雪が染み込む。 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・ほんのちょいとの間の気まぐれで、おもちゃにして下さるかも知れませんが、深い恋をして下さろうとは思われません。それがあの時わたくしの胸に電光のように徹しました。自分の弱点を恥じる心が、嫌われるだろうと思う疑懼に交って、とうとうわたくしをあの場・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・しかしその時は己の心が何物かに縛られていて、深い感じは起さずにしまった。そういう時は見ても見えず、聞いても聞えず、心は何処か余所になってしまっていて、貴い熱も身を温めず、貴い波も身を漂わさず、他の人が何日か出会って、一度は争って、終には恵み・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・は姨捨山へ往て、山に捨てられたのを喰うて生きて居るというような浅ましい境涯であった、しかるに八十八人目の姨を喰うてしもうた時ふと夕方の一番星の光を見て悟る所があって、犬の分際で人間を喰うというのは罪の深い事だと気が付いた、そこで直様善光寺へ・・・ 正岡子規 「犬」
松の木や楢の木の林の下を、深い堰が流れて居りました。岸には茨やつゆ草やたでが一杯にしげり、そのつゆくさの十本ばかり集った下のあたりに、カン蛙のうちがありました。 それから、林の中の楢の木の下にブン蛙のうちがありました。・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
出典:青空文庫