・・・何だかその匂や褐色の花粉がべたべた皮膚にくっつきそうな気がした。 多加志はたった一晩のうちに、すっかり眼が窪んでいた。今朝妻が抱き起そうとすると、頭を仰向けに垂らしたまま、白い物を吐いたとか云うことだった。欠伸ばかりしているのもいけない・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・あいにくの吹き降りで、不二見村の往還から寺の門まで行く路が、文字通りくつを没するほどぬかっていたが、その春雨にぬれた大覇王樹が、青い杓子をべたべたのばしながら、もの静かな庫裡を後ろにして、夏目先生の「草枕」の一節を思い出させたのは、今でも歴・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
・・・珊瑚の幹をならべ、珊瑚の枝をかわしている上に、緑青をべたべた塗りつけたようにぼってりとした青葉をいただいている。老爺は予のために、楓樹にはいのぼって上端にある色よい枝を折ってくれた。手にとれば手を染めそうな色である。 湖も山もしっとりと・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・体つき、身のこなしなど、いやらしく男の心をそそるようで眼つきも据っていて、気が進まなかったが、レッテルが良いので雇い入れた。べたべたと客にへばりつき、ひそひそ声の口説も何となく蝶子には気にくわなかったが、良い客が皆その女についてしまったので・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のようだと思ってごらん。それで俺達の憂鬱は完成するのだ。 ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている! いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の・・・ 梶井基次郎 「桜の樹の下には」
・・・京橋の誰それ、烏森の何の某、という風に、参詣した連中の残した御札がその御堂の周囲にべたべたと貼りつけてある。高い柱の上にも、正面の壁の上にも、それがある。思わずお三輪は旧い馴染の東京をそんなところに見つける気がして、雨にもまれ風にさらされた・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・人並よりよほど広い額に頭痛膏をべたべたと貼り塞いでいる。昨夕の干潟の烏のようである。「昨日来なんしたげなの。わしゃちょうど馬を換えに行っとりましての」と、手を休めて、「乗りなんせい。今度のもおとなしゅうがんすわいの」と言ったかと思う・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・作家としての、悪い宿業が、多少でも、美しいものを見せられた時、それをそのまま拱手観賞していることが出来ず、つい腕を伸ばして、べたべた野蛮の油手をしるしてしまうのである。作家としての、因果な愛情の表現として、ゆるしてもらいたいのである。美しけ・・・ 太宰治 「盲人独笑」
・・・それで、虻が蜜汁をあさってしまって、後ろ向きにはい出そうとするときに、虻の尻がちょうどおしべの束の内向きに曲がった先端の彎曲部に引っかかり、従って存分に花粉をべたべたと押しつけられる。しかし弱い弾性しか持たぬおしべは虻の努力に押しのけられて・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・一太は素足だから、べたべた草履が踵を打つ音をさせながら歩いた。「ね、おっかちゃん、あんな家却って駄目なんだよ。女中の奴がね、いきなりいりませんて断っちまやがるよ」 一太が賢そうな声を潜めて母に教えた。そこでは、桜の葉が散っている門内・・・ 宮本百合子 「一太と母」
出典:青空文庫