・・・ごろ日光の山中で彼女に流産を強いた、というようにでも書き続けて行こうとも思って、夕方近くなって机に向ったのだったが、年暮れに未知の人からよこされた手紙のことが、竦然とした感じでふと思いだされて、自分はペンを措いて鬱ぎこんでしまった。 そ・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・ 今は小説を書くために、小説を書いている人間はいくらでもいるが、本当に、ペンをとってブルジョアを叩きつぶす意気を持ってかゝっている者は、五指を屈するにも足りない。僕は、トルストイや、ゴーゴリや、モリエールをよんで常に感じるのは、彼等は小・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・その時相手がいかにも落着いた態度で出てきたら、手にペンでも持って出てきたら、その時こそ惨めな自分が面と面を突きあわすことを露骨に感ぜさせられるだろう。それにはかなわない。 ――上りになっていた道をむしろ早足で歩いてきたので身体が熱かった・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・ その日は、人の心を腐らせるような、ジメジメと蒸暑い八月上旬のことで、やがて相川も飜訳の仕事を終って、そこへペンを投出した頃は、もう沮喪して了った。いつでも夕方近くなると、無駄に一日を過したような後悔の念が湧き上って来る。それがこの節相・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・私はペンを休めて、耳傾ける。下宿と小路ひとつ距て製糸工場が在るのだ。そこの女工さんたちが、作業しながら、唄うのだ。なかにひとつ、際立っていい声が在って、そいつがリイドして唄うのだ。鶏群の一鶴、そんな感じだ。いい声だな、と思う。お礼を言いたい・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・これは、かの新人競作、幻燈のまちの、なでしこ、はまゆう、椿、などの、ちょいと、ちょいとの手招きと変らぬ早春コント集の一篇たるべき運命の不文、知りつつも濁酒三合を得たくて、ペン百貫の杖よりも重き思い、しのびつつ、ようやく六枚、あきらかにこれ、・・・ 太宰治 「あさましきもの」
・・・けれども、三人の中で最も罪の深い、この芸術家だけは、死にもせずペンを握って、「小鳥が羽の生えた儘で死ぬように、その着物を着た儘で死んだのである。」などと、自分の女房のみじめな死を、よそごとのように美しく形容し、その棺に花束一つ投入してやった・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・三月十四日 ペンで細字で考え考え書いてしまったのを懐にして表のポストに入れに出た。そして今書いた事を心でもう一遍繰り返しながら、これを読んだ時に黒田の苦い顔に浮ぶべき微笑を胸に描いた。・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・軒下に眠るルンペンのいびきの音が伴奏を始める。家の裏戸が明いて早起きのおかみさんが掃除を始める、その箒の音がこれに和する。この三つの音が次第に調子を早める。高角度に写された煙突から朝餉の煙がもくもくと上がり始めると、あちらこちらの窓が明いて・・・ 寺田寅彦 「音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」」
・・・レーノルズの全集をひやかしてこの異彩ある学者を礼讃してみたり、マクスウェルの伝記中にあるこの物理学者の戯作ヴァンパヤーの詩や、それを飾る愉快に稚拙なペン画を嬉しがったりした。そんな下らないことが、今から考えてみると、みんな後年の自分の生涯に・・・ 寺田寅彦 「科学に志す人へ」
出典:青空文庫