・・・丁度焼跡の荒地に建つ仮小屋の間を彷徨うような、明治の都市の一隅において、われわれがただ僅か、壮麗なる過去の面影に接し得るのは、この霊廟、この廃址ばかりではないか。 過去を重んぜよ。過去は常に未来を生む神秘の泉である。迷える現在の道を照す・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・三把稲というのは其方向から雷鳴を聞くと稲三把刈る間に夕立になるといわれて居るのである。雲は太く且つ広く空を掩うて一直線に進んで来る。閃光を放ちながら雷鳴が殷々として遠く聞こえはじめた。東南の空際にも柱の如き雲が相応じて立った。文造は此の気象・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・それで彼は骨が太くなると百姓奉公ばかりさせられた。彼はうまく使えば非常な働手であった。彼は一剋者である。一旦怒らせたら打っても突いてもいうことを聴くのではない。性癖は彼の父の遺伝である。だが甞て乱暴したということもなくてどっちかというと酷く・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・それをなお見つめていると今度は視覚が鈍くなって多少ぼんやりし始めるのだからいったん上の方へ向いた意識の方向がまた下を向いて暗くなりかける。これは実験して御覧になると分る。実験と云っても機械などは要らない。頭の中がそうなっているのだからただ試・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・僕も豆腐屋へ年期奉公に住み込んで置けばよかった」「君は第一平生から惰弱でいけない。ちっとも意志がない」「これでよっぽど有るつもりなんだがな。ただ饂飩に逢った時ばかりは全く意志が薄弱だと、自分ながら思うね」「ハハハハつまらん事を云・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・自己の劃したる檻内に咆哮して、互に噛み合う術は心得ている。一歩でも檻外に向って社会的に同類全体の地位を高めようとは考えていない。互を軽蔑した文字を恬として六号活字に並べ立てたりなどして、故さらに自分らが社会から軽蔑されるような地盤を固めつつ・・・ 夏目漱石 「文芸委員は何をするか」
・・・昔、ペルシヤ戦争に於てギリシヤの勝利が今日までのヨーロッパ世界の文化発展の方向を決定したと云われる如く、今日の東亜戦争は後世の世界史に於て一つの方向を決定するものであろう。 今日の世界的道義はキリスト教的なる博愛主義でもなく、又支那・・・ 西田幾多郎 「世界新秩序の原理」
・・・かつて私は、長く住んでいた家の廻りを、塀に添うて何十回もぐるぐると廻り歩いたことがあった。方向観念の錯誤から、すぐ目の前にある門の入口が、どうしても見つからなかったのである。家人は私が、まさしく狐に化かされたのだと言った。狐に化かされるとい・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・そこで彼女は数日間仕事を求めて、街を、工場から工場へと彷徨うたのだろう。それでも彼女は仕事がなかったんだろう。「私は操を売ろう」そこで彼女は、生命力の最後の一滴を涸らしてしまったんではあるまいか。そしてそこでも愈々働けなくなったんだ。で、遂・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ギアーを廻してから三十分もして方向が利いて来ると云うのだから、瀬戸中で打つからなかったのは、奇蹟だと云ってもよかった。―― 彼女は三池港で、船艙一杯に石炭を積んだ。行く先はマニラだった。 船長、機関長、を初めとして、水夫長、火夫長、・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
出典:青空文庫