・・・よしやその母子に一銭の恵みを垂れずとも、たれか憐れと思わざらん。 しかるに巡査は二つ三つ婦人の枕頭に足踏みして、「おいこら、起きんか、起きんか」 と沈みたる、しかも力を籠めたる声にて謂えり。 婦人はあわただしく蹶ね起きて、急・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・って、小高い所にあるから一寸見ても涼しそうな家さ、おれがいくとお町は二つの小牛を庭の柿の木の蔭へ繋いで、十になる惣領を相手に、腰巻一つになって小牛を洗ってる、刈立ての青草を籠に一ぱい小牛に当てがって、母子がさも楽しそうに黒白斑の方のやつを洗・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・と云って駈け降りて来た。お松の母も降りて来た。「良くまア坊さんきてくれたねえ」と云って母子して自分達を迎えた。自分は少しきまりが悪かった。母の袖の下へ隠れるようにしてお松の顔を見た。お松は襷をはずして母に改った挨拶をしてから、なつかしい目で・・・ 伊藤左千夫 「守の家」
・・・ これにひきかえて、母子のくまを打たずにもどったやさしい猟人は、どうか、はやく、あの母子のくまはどこかへ隠れてくれればいいと思いながら歩いてきました。 家ではおかみさんが待っていました。「うちの人は、久しぶりで山へはいったのだが・・・ 小川未明 「猟師と薬屋の話」
・・・ひとりお母さんが、手内職をして、母子は、その日、その日、貧しい生活をつづけていました。 彼は、学校から帰ると、今日のお話をお母さんにしたのでした。その日あったことは、なんでも帰ってからお母さんに話すのが常でありました。これをきくと、お母・・・ 小川未明 「笑わなかった少年」
・・・細君が二人の子供を連れて、母子心中の死場所を探しに行ったこともあった。この細君が後年息を引き取る時、亭主の坂田に「あんたも将棋指しなら、あんまり阿呆な将棋さしなはんなや」と言い残した。「よっしゃ、判った」と坂田は発奮して、関根名人を指込むく・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・こは世にありがちの押し問答なれどわれら母子の間にてかかる類の事の言葉にのぼりしは例なきことなりける。されど母上はなお貴嬢が情けの変わりゆきし順序をわれに問いたまいたれど、われいかでこの深き秘密を語りつくし得ん、ただ浅き知恵、弱き意志、順なる・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・それが母子の愛を深め、感謝と信頼との原因となるのはいうまでもない。愛してはくれるが、働いてくれるには及ばなかった富裕な家の母と、自分の養、教育のために犠牲的に働いてくれた母とでは、子どもの感情は大変な相異であろう。労働と犠牲とは母性愛を神聖・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・動物的、本能的愛護と、手足の労働による世話と、犠牲的奉仕とが母性愛と母子間の従属、融合の愛と理解と感謝とに如何に大きな影響を持つかは思い半ばにすぎるものがある。人倫の根本愛の雛型である母子間の結紐を稀薄にすることが理想的社会の結合を暖かく、・・・ 倉田百三 「婦人と職業」
・・・しかして途方にくれた母子二人は二十匹にも余る野馬の群れに囲まれてしまいました。 子どもは顔をおかあさんの胸にうずめて、心配で胸の動悸は小時計のようにうちました。「私こわい」 と小さな声で言います。「天に在します神様――お助け・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
出典:青空文庫