・・・ 私が、可なり屡々彼の墓参にゆくのは、彼の冥福を祈る為ではない。全く反対だ。私は、欅の木の蔭に建っている墓標の下から、彼を呼び起そうとするのだ。何とか自分の心を片づけるきっかけを、彼の見えざる面を視つめて掴もうとし、彼の墓の前に或る時は・・・ 宮本百合子 「文字のある紙片」
・・・ 六日には九郎右衛門が兄の墓参をした。七日には浜町の神戸方へ、兄が末期に世話になった礼に往った。西北の風の強い日で、丁度九郎右衛門が神戸の家にいるうちに、神田から火事が始まった。歴史に残っている午年の大火である。未の刻に佐久間町二丁目の・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・ わたくしはえいが墓参の事を言うついでに附記したい。それは願行寺の樒売の翁媼の事である。えいの事をわたくしの問うたこの翁媼は今や亡き人である。先日わたくしは第一高等学校の北裏を歩いて、ふと樒屋の店の鎖されているのに気が付いたので、近隣の・・・ 森鴎外 「細木香以」
出典:青空文庫