・・・一度左近が兵衛らしい梵論子の姿に目をつけて、いろいろ探りを入れて見たが、結局何の由縁もない他人だと云う事が明かになった。その内にもう秋風が立って、城下の屋敷町の武者窓の外には、溝を塞いでいた藻の下から、追い追い水の色が拡がって来た。それにつ・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・そこで、あの容貌のよい、利発者の娘が、お籠りをするにも、襤褸故に、あたりへ気がひけると云う始末でございました。」「へえ。そんなに好い女だったかい。」「左様でございます。気だてと云い、顔と云い、手前の欲目では、まずどこへ出しても、恥し・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・赤坊はいんちこの中で章魚のような頭を襤褸から出して、軒から滴り落ちる雨垂れを見やっていた。彼れの気分にふさわない重苦しさが漲って、運送店の店先に較べては何から何まで便所のように穢かった。彼は黙ったままで唾をはき捨てながら馬の始末をするとすぐ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・その乞食の人はどんなことがあっても駆けるということをしないで、ぼろを引きずったまま、のそりのそりと歩いていたから、それにとらえられる気づかいはなかったけれども、遠くの方からぼくたちのにげるのを見ながら、牛のような声でおどかすことがあった。ぼ・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・ 四百トン足らずの襤褸船に乗って、私は釧路の港を出た。そうして東京に帰ってきた。 帰ってきた私は以前の私でなかったごとく、東京もまた以前の東京ではなかった。帰ってきて私はまず、新らしい運動に同情を持っていない人の意外に多いのを見て驚・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・が、左の手は、ぶらんと落ちて、草摺の断れたような襤褸の袖の中に、肩から、ぐなりとそげている。これにこそ、わけがあろう。 まず聞け。――青苔に沁む風は、坂に草を吹靡くより、おのずから静ではあるが、階段に、緑に、堂のあたりに散った常盤木の落・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・その反対の、山裾の窪に当る、石段の左の端に、べたりと附着いて、溝鼠が這上ったように、ぼろを膚に、笠も被らず、一本杖の細いのに、しがみつくように縋った。杖の尖が、肩を抽いて、頭の上へ突出ている、うしろ向のその肩が、びくびくと、震え、震え、脊丈・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ほども遠い、……奥沢の九品仏へ、廓の講中がおまいりをしたのが、あの辺の露店の、ぼろ市で、着たのはくたびれた浴衣だが、白地の手拭を吉原かぶりで、色の浅黒い、すっきり鼻の隆いのが、朱羅宇の長煙草で、片靨に煙草を吹かしながら田舎の媽々と、引解もの・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 菊枝は、硫黄ヶ島の若布のごとき襤褸蒲団にくるまって、抜綿の丸げたのを枕にしている、これさえじかづけであるのに、親仁が水でも吐したせいか、船へ上げられた時よりは髪がひっ潰れて、今もびっしょりで哀である、昨夜はこの雫の垂るる下で、死際の蟋・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・……あまつさえ、目の赤い親仁や、襤褸半纏の漢等、俗に――云う腸拾いが、出刃庖丁を斜に構えて、この腸を切売する。 待て、我が食通のごときは、これに較ぶれば処女の膳であろう。 要するに、市、町の人は、挙って、手足のない、女の白い胴中を筒・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
出典:青空文庫