・・・赤沼の三郎、仕返しは、どの様に望むかの。まさかに、生命を奪ろうとは思うまい。厳しゅうて笛吹は眇、女どもは片耳殺ぐか、鼻を削るか、蹇、跛どころかの――軽うて、気絶……やがて、息を吹返さすかの。」「えい、神職様。馬蛤の穴にかくれた小さなもの・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 謂は何かこれにこそと、七兵衛はその時から怪んで今も真前に目を着けたが、まさかにこれが死神で、菊枝を水に導いたものとは思わなかったであろう。 実際お縫は葛籠の中を探して驚いたのもこれ、眉を顰めたのもこれがためであった。斧と琴と菊模様・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 十三「おなじ奉公人どもが、たださえ口の悪い処へ、大事出来のように言い囃して、からかい半分、お米さんは神様のお気に入った、いまに緋の袴をお穿きだよ、なんてね。 まさかに気があろうなどとは、怪我にも思うのじゃござい・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 枕に着かるるどころではありませぬ、ああ越中と越後と国は変っても、女の念は離れぬかとまさかに魂を託ったとまでは、信じなかったのでありまするけれども、つくづく溜息をしたのであります。 夜が明けると、一番の上り汽車、これが碓氷の隧道を越・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 隣へ見にやる、菓子屋へ見にやる、下水溝の橋の下まで見たが、まさかに池とは思わないので、最後に池を見たらば……。 浮いておった。池に仰向けになって浮いていた。垣根の竹につかまって、池へはいらずに上げることができた。時間を考えると、初・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・予はまさかに怒る訳にもゆかない、食わぬということも出来かねた。 予が食事の済んだ頃岡村はやってきた。岡村の顔を見れば、それほど憎らしい顔もして居らぬ。心あって人を疎ましくした様な風はして居らぬ。予は全く自分のひがみかとも迷う。岡村が平気・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・若い女ばかり集まる処だからお秀の性質でもまさかに寝衣同様の衣服は着てゆかれず、二三枚の単物は皆な質物と成っているし、これには殆ど当惑したお富は流石女同志だけ初めから気が付いていた。お秀の当惑の色を見て、「気に障えちゃいけないことよ、あの・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・迷ったところが今の武蔵野にすぎない、まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはりおよその方角をきめて、べつな路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうることがある。日は富士の背に落ちんとしていまだまったく落ちず、富士の中腹に・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・はと申しますと、これはどうも実際社会に現存して居る人物の悪者を極端まで誇張して書いたような形跡があります。まさかに馬琴の書きましたほどの悪人が、その当時に存して居ったとは思えませぬが、さればとてそれは全く馬琴の空想ばかりで捏造したものではあ・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・いくら新聞では見、ものの本では読んでいても、まさかに自分が、このいまわしい言葉と、眼前直接の交渉を生じようと予想した者は、一個もあるまい。しかも、わたくしは、ほんとうにこの死刑に処せられんとしているのである。 平生わたくしを愛してくれた・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
出典:青空文庫