・・・「いっそのこと殺しっちまあべと思ってよ」 ぶっきら棒にいった。「何よ」と対手はいった。然しそれが余り突然なので対手はいつものように揶揄って見たくなった。「まさか俺がこっちゃあるめえな」とすぐにつけ足した。「どうせ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・余はその端書を見て気の毒のうちにも一種のおかしみを覚えた。まさか死ぬほど寒いとは思わなかったからである。しかし死ぬほど寒かったものと見える。長谷川君はとうとう死んでしまった。長谷川君は余を了解せず、余は長谷川君を了解しないで死んでしまった。・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・私がまさかお前さんを欺す……」と、西宮がなお説き進もうとするのを、吉里は慌てて遮ッた。「あら、そうじゃアありませんよ。兄さんには済みません。勘忍して下さいよ。だッて、平田さんがあんまり平気だから……」「なに平気なものか。平生あんなに快濶・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・身分不相応な大熊手を買うて見た処で、いざ鎌倉という時に宝船の中から鼠の糞は落ちようと金が湧いて出る気遣はなしさ、まさか大仏の簪にもならぬものを屑屋だって心よくは買うまい。…………やがて次の熊手が来た。今度は二人乗のよぼよぼ車に窮屈そうに二人・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・畑のものや木には大へんいいけれどもまさか今日こんなに急に降るとは思わなかった。私たちはもう帰らないといけない。」 けれどもアラムハラドはまだ降るまではよほど間があると思っていました。ところがアラムハラドの斯う云ってしまうかしまわないうち・・・ 宮沢賢治 「学者アラムハラドの見た着物」
・・・わたしたちの一票は、おとぎばなしの欲深爺の背負ったつづらのふたをあける役にだけたったようでさえある。まさかとおもい、どうやらこれならとおもって一票を入れた社会党、民主党、民自党、びっくりばこのようにそのふたがはねあがったら昭和電工、相つぐ涜・・・ 宮本百合子 「新しい潮」
・・・はてなと思って好く聞いて見ると、飲んでも二三杯だと云うのですから、まさか肝臓に変化を来す程のこともないだろうと思います。栄養は中等です。悪性腫瘍らしい処は少しもありません」「ふん。とにかく見よう。今手を洗って行くから、待ってくれ給え。一・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・ だが身贔負で、なお幾分か、内心の内心には「まさか殺されはせまい」の推察が虫の息で活きている。それだのに涙腺は無理に門を開けさせられて熱い水の堰をかよわせた。 このままでややしばらくの間忍藻は全く無言に支配されていたが、その内に破裂・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・しかしまさかアルミニウスという名は付けない。この土地はおさんにインゲボルクがいたり、小間使にエッダがいたりする。それがそういう立派な名を汚すわけでもない。 己はいつまでもエルリングの事を忘れる事が出来なかった。あの男のどこが、こんなに己・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・私もまさかこのジメジメした気分を側の者に振りかけなければいられないほど弱くはありません。しかし人の前でそれを少しも顔に出さないでいられるほど強くもありません。私は暗い沈んだ顔をして黙り込んでいます。そうしてこの表情のために愛するものたちを不・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫