・・・ 自分の若かった郷里の思い出の中にまざまざと織り込まれている親しい人たちの現実の存在がだんだんに消えてなくなって行くのはやはりさびしい。たとえ生きていてももう再び会う事があるかどうかもわからず、通り一ぺんの年賀や暑中見舞い以外に交通もな・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・そうかと思うと蜀黍の垣根の蔭に棍棒へ手を挂けて立って居る犬殺がまざまざと目に見える。彼は相の悪い犬殺しが釣した蓆の間から覗くように思われて戦慄した。彼は目を開いた。柱に懸けたともし灯が薄らに光って居る。彼は風を厭うともし灯を若木の桐の大きな・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・私の生きた知覚は、既に十数年を経た今日でさえも、なおその恐ろしい印象を再現して、まざまざとすぐ眼の前に、はっきり見ることができるのである。 人は私の物語を冷笑して、詩人の病的な錯覚であり、愚にもつかない妄想の幻影だと言う。だが私は、たし・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・何で死が現われて来て、こうまざまざと世の様を見せてくれねばならぬのか。実在のものが儚い思出の影のように見えるまで、真の生活の物事にこの心を動かさねばならぬのか。何故お前の弾いた糸の音が丁度石瓦の中に埋められていた花のように、意識の底に隠れて・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ 一、ところが、面白いことに、そうして自分たちの文化の水準をまざまざ示して一冊の本でも買う方に、「今日の文化について御意見を」と云われでもすると、その人は何と答えられるでしょう。「やア、僕はそんなむずかしいことを喋る柄じゃないですよ、」・・・ 宮本百合子 「朝の話」
・・・そのことはまざまざと私たちの胸から指のさきまで脈をうって伝わっている。世界史がかきかわり、日本も世界史的規模で新たになってゆくという現実のよりどころは、文化に即して云えば窮極のところ次の世代の創造の可能力如何にかかっているのが事実である。・・・ 宮本百合子 「明日の実力の為に」
・・・ このたびの大戦の結果は、二十五年以前の第一次世界大戦のときよりも、いっそうまざまざと人間理性の勝利の意味、民主的社会の価値を教えたのだが、それにつれて、世界の女性のうごきも、独特の飛躍発展を示してきている。日本はこの十数年間、鎖国の状・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・ 私は自分の製作活動において自分の貧弱をまざまざと見たのである。製作そのものも、そこに現われた生活も、かの偉人たちの前に存在し得るだけの権威さえ持っていなかった。私は眩暈を感じた。しかし私は踏みとどまった。再び眼が見え出した時には、私は・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
・・・そうして我々はまざまざとその味わいを会得することができたのである。 こういうふうな仕方で我々はいろいろの味を教わった。自分はその時の印象によってのほか岡倉先生を知らない。ひそかに思うに、あれが岡倉先生の最も本質的な面であったのであろう。・・・ 和辻哲郎 「岡倉先生の思い出」
・・・田植えのころの活気立った農村の気持ちのみならず、稲の苗、田の水や泥、などの感触をまでまざまざと思い起こさせる。 こういう仕方でやがて夏になり、野萩の咲くころとなり、秋に入り、雪を迎え、新年になる。遅い山国の春にも紅梅が咲き、雪が解け、や・・・ 和辻哲郎 「歌集『涌井』を読む」
出典:青空文庫