・・・ 栗柿を剥く、庖丁、小刀、そんなものを借りるのに手間ひまはかからない。 大剪刀が、あたかも蝙蝠の骨のように飛んでいた。 取って構えて、ちと勝手は悪い。が、縄目は見る目に忍びないから、衣を掛けたこのまま、留南奇を燻く、絵で見た伏籠・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 省作は、はっとしたけれど例のごとく穏やかな笑いをして政さんの方へ向く。政さんは快活に笑って三つの繩をなってしまった。省作が二つ終えないうちに政さんはちょろり三つなってしまった。満蔵は二俵目の米を倉から出してきて臼へ入れてる。おはまは芋・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・そうすれば省作も人の養子などにいく必要もなく、無垢な少女おつねを泣かせずにも済んだのだ。この解り切った事を、そうさせないのが今の社会である。社会というものは意外ばかなことをやっている。自分がその拘束に苦しみ切っていながら、依然として他を拘束・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ そのはにかんでいる様子は、今日まで多くの男をだまして来た女とは露ほども見えないで、清浄無垢の乙女がその衣物を一枚一枚剥がれて行くような優しさであった。僕が畜生とまで嗅ぎつけた女にそんな優しみがあるのかと、上手下手を見分ける余裕もなく、・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・あの会合は本尊が私設外務大臣で、双方が探り合いのダンマリのようなもんだったから、結局が百日鬘と青隈の公卿悪の目を剥く睨合いの見得で幕となったので、見物人はイイ気持に看惚れただけでよほどな看功者でなければドッチが上手か下手か解らなかった。あア・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・『浮雲』時代の日記に、「常に馴れたる近隣の飼犬のこの頃は余を見ても尾を振りもせず跟をも追はず、その傍を打通れば鼻つらをさしのべて臭ひを嗅ぐのみにて余所を向く、この頃はを食する事稀なれば残りを食まする事もしばしばあらざればと心の中に思ひたり、・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・その父親は、手間がとれても、子供の気の向くままにまかせて、ぼんやり立ち止まって、それを見守っていることもありました。「なぜ、人間は、いつまでもこの子供の心を失わずにいられないものだろうか。なぜ年を取るにつれて、悪い考えをもったり、まちが・・・ 小川未明 「幾年もたった後」
・・・ある夜、店から抜け出た彼は、足の向くままに、停車場を指してやってきました。けれども、もとより汽車賃がなかったので、どうすることもできません。見ますと、故郷の方へ立つ夜行列車が出ようとしています。 彼はせめて貨車の中にでも身を隠すことがで・・・ 小川未明 「海へ」
・・・これを見つけた教師は、「なんで、そう横を向くんだ。」としかって、子供をにらみました。子供は、また、毎日教師からしかられたのであります。 小川未明 「教師と子供」
・・・そのことが、いかに、純情、無垢な彼等の明朗性を損うことか分らないのみならず、真の勇気を阻止し、権力の前に卑屈な人間たらしめることになるのであります。 考うるだに慨歎すべきことです。この種の読物こそ、階級闘争の種子を蒔き、その激化を将来に・・・ 小川未明 「童話を書く時の心」
出典:青空文庫