・・・ たゞ、どこにでもあるであろう、いゝ音色は、同じく、無条件に、人間の魂を捕えずに置かないというにしか過ぎない。 野蛮人は、殊に、音に対して、鋭敏な感覚を有している。いゝ音色に聞きとれている時には、背後から頸を斬られるのも知らずにいる・・・ 小川未明 「名もなき草」
・・・ 夜が更けて夜番の撃柝の音がきこえ出すと、堯は陰鬱な心の底で呟いた。「おやすみなさい、お母さん」 撃柝の音は坂や邸の多い堯の家のあたりを、微妙に変わってゆく反響の工合で、それが通ってゆく先ざきを髣髴させた。肺の軋む音だと思ってい・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・それでもなお女性をふみにじる者は獣だ野蛮人だ。そういう者は男性の間で軽蔑せられ、淘汰されて滅びて行く。 だから女性の人生における受持は、その天賦の霊性をもって、人生を柔げ、和ませ、清らかにし、また男子を正義と事業とに励ますことであろう。・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・責任を問われる心配がない××××と××は、兵士達にある野蛮な快味を与える。そして彼等を勇敢にするのだった。 武器の押収を命じられていることは、殆んど彼等の念頭になかった。快活らしい元気な表情の中には、ただ、ゼーヤから拾ってきた砂金を掴み・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・しかしその野蛮な戯れは都会の退屈な饒舌にも勝って彼を悦ばせた。彼はしばらくこの地方に足を留め、心易い先生方の中で働いて、もっともっと素朴な百姓の生活をよく知りたいと言った。谷の向うの谷、山の向うの山に彼の心は馳せた。 それから二年ば・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・あの先生には泥だらけな護謨靴でも何でもはいて、魚河岸を馳け廻って来るような野蛮なところがあります。お母さんの前ですが、私にはそういうものが欠けています」「お前さんはちいさい時分から祖母さんに可愛がられて、あの祖母さんに仕込まれて、あたし・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・大隅君は、野蛮な人ではない。厳父は朝鮮の、某大学の教授である。ハイカラな家庭のようである。大隅君は独り息子であるから、ずいぶん可愛がられて、十年ほど前にお母さんが死んで、それからは厳父は、何事も大隅君の気のままにさせていた様子で、謂わば、お・・・ 太宰治 「佳日」
・・・然し、ぼくは野蛮でたくましくありたいのです。現在ぼくの熱愛している世界はどの作家にもありません。ドストエフスキイが一番好きです。ぼくのこのみの平凡さを軽ベツしないで下さい。ぼくは今年こそ、なにか、書きたいと思っています。だが、小説に、人生に・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・音楽舞踊はいかなる野蛮民族の間にも現存する。建築や演劇でも、いずれもかなりな灰色の昔にまでその発達の径路をさかのぼる事ができるであろう。マグダレニアンの壁画とシャバンヌの壁画の間の距離はいかに大きくとも、それはただ一筋の道を長くたどって来た・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・それだからこれは野蛮民の戦争踊りが野蛮民に訴えると同じ意味において最高の芸術でなければならないのである。これと同じ意味においてまたわが国の剣劇の大立ち回りが大衆の喝采を博するのであろう。荒木又右衛門が三十余人を相手に奮闘するのを見て理屈抜き・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
出典:青空文庫