・・・ 結いたての髪をにおわせた美津は、極り悪そうにこう云ったまま、ばたばた茶の間の方へ駈けて行った。 洋一は妙にてれながら、電話の受話器を耳へ当てた。するとまだ交換手が出ない内に、帳場机にいた神山が、後から彼へ声をかけた。「洋一さん・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・三 その夜わたしは結い燈台の光に、御主人の御飯を頂きました。本来ならばそんな事は、恐れ多い次第なのですが、御主人の仰せもありましたし、御給仕にはこの頃御召使いの、兎唇の童も居りましたから、御招伴に預った訳なのです。 御部・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・ たね子はがっかりして本を投げ出し、大きい樅の鏡台の前へ髪を結いに立って行った。が、洋食の食べかただけはどうしても気にかかってならなかった。…… その次の午後、夫はたね子の心配を見かね、わざわざ彼女を銀座の裏のあるレストオランへつれ・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・いらいらした気分はよく髪の結い方、衣服の着せ方に小言をいわせた。さんざん小言をいってから独りになると何んともいえない淋しさに襲われて、部屋の隅でただ一人半日も泣いていた記憶も甦った。クララはそんな時には大好きな母の顔さえ見る事を嫌った。まし・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 周囲に柵を結いたれどそれも低く、錠はあれど鎖さず。注連引結いたる。青く艶かなる円き石の大なる下より溢るるを樋の口に受けて木の柄杓を添えあり。神業と思うにや、六部順礼など遠く来りて賽すとて、一文銭二文銭の青く錆びたるが、円き木の葉のごと・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ 川下の方から寂として聞えて来る、あたりの人の気勢もなく、家々の灯も漏れず、流は一面、岸の柳の枝を洗ってざぶりざぶりと音する中へ、菊枝は両親に許されて、髪も結い、衣服もわざと同一扮で、お縫が附添い、身を投げたのはここからという蓬莱橋から・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・で、般若は一挺の斧を提げ、天狗は注連結いたる半弓に矢を取添え、狐は腰に一口の太刀を佩く。 中に荒縄の太いので、笈摺めかいて、灯した角行燈を荷ったのは天狗である。が、これは、勇しき男の獅子舞、媚かしき女の祇園囃子などに斉しく、特に夜に入っ・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ 根上りに結いたる円髷の鬢頬に乱れて、下〆ばかり帯も〆めず、田舎の夏の風俗とて、素肌に紺縮の浴衣を纏いつ。あながち身だしなみの悪きにあらず。 教育のある婦人にあらねど、ものの本など好みて読めば、文書く術も拙からで、はた裁縫の業に長け・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・唯見て、嬉しそうに膝に据えて、熟と視ながら、黄金の冠は紫紐、玉の簪の朱の紐を結い参らす時の、あの、若い母のその時の、面影が忘れられない。 そんなら孝行をすれば可いのに―― 鼠の番でもする事か。唯台所で音のする、煎豆の香に小鼻を怒らせ・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・お京さんは、結いたての銀杏返で、半襟の浅黄の冴えも、黒繻子の帯の艶も、霞を払ってきっぱりと立っていて、と、うっかり私が言ったんだから、お察しものです。すぐ背後の土間じゃ七十を越した祖母さんが、お櫃の底の、こそげ粒で、茶粥とは行きません、みぞ・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
出典:青空文庫