・・・ざるの一義を貫き、たとえば彼の有名なる中山大納言が東下したるとき、将軍家を目して吾妻の代官と放言したりというがごとき、当時の時勢より見れば瘠我慢に相違なしといえども、その瘠我慢こそ帝室の重きを成したる由縁なれ。 また古来士風の美をいえば・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・其事に見われしもの之を事の持前というに、事の持前は猶物の持前の如く、是亦形を成す所以のものなり。火の形に熱の意あれば水の形にも冷の意あり。されば火を見ては熱を思い、水を見ては冷を思い、梅が枝に囀ずる鶯の声を聞ときは長閑になり、秋の葉末に集く・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・その抽んでたる所以は、他集の歌が豪も作者の感情を現し得ざるに反し、『万葉』の歌は善くこれを現したるにあり。他集が感情を現し得ざるは感情をありのままに写さざるがためにして、『万葉』がこれを現し得たるはこれをありのままに写したるがためなり。曙覧・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・まだ少しあかるいのに、青いアセチレンや、油煙を長く引くカンテラがたくさんともって、その二階には奇麗な絵看板がたくさんかけてあったのだ。その看板のうしろから、さっきからのいい音が起っていたのだ。看板の中には、さっきキスを投げた子が、二疋の馬に・・・ 宮沢賢治 「黄いろのトマト」
・・・(第一おら、下座だちゅうはずぁあんまい、ふん、お椀のふぢぁ欠げでる、油煙はばやばや、さがなの眼玉は白くてぎろぎろ、誰っても盃よごさないえい糞とうとう小吉がぷっと座を立ちました。 平右衛門が、「待て、待て、小吉。もう一杯やれ、待てった・・・ 宮沢賢治 「とっこべとら子」
・・・クリスト教国に生れて仏教を信ずる所以はどうしても仏教が深遠だからである。自分は阿弥陀仏の化身親鸞僧正によって啓示されたる本願寺派の信徒である。則ち私は一仏教徒として我が同朋たるビジテリアンの仏教徒諸氏に一語を寄せたい。この世界は苦である、こ・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
先頃、友情というものについてある人の書かれた文章があった。その中にニイチェの言葉が引用されている。「婦人には余りにも永い間暴君と奴隷とがかくされていた。婦人に友情を営む能力のない所以であって、婦人の知っているのは恋愛だけで・・・ 宮本百合子 「異性の間の友情」
・・・殉死する本人や親兄弟妻子は言うまでもなく、なんの由縁もないものでも、京都から来るお針医と江戸から下る御上使との接待の用意なんぞはうわの空でしていて、ただ殉死のことばかり思っている。例年簷に葺く端午の菖蒲も摘まず、ましてや初幟の祝をする子のあ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ここに書くところは即ち予の懺悔で、彼宿因を了する所以だ。人は社会を成す動物だ。樵夫は樵夫と相交って相語る。漁夫は漁夫と相交って相語る。予は読書癖があるので、文を好む友を獲て共に語るのを楽にして居た。然るに国民之友の主筆徳富猪一郎君が予の語る・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
出典:青空文庫