「歩哨に立って大陸の夜空を仰いでいるとゆくりなくも四ッ橋のプラネタリュウムを想いだした……」と戦地の友人から便りがあったので、周章てて四ッ橋畔の電気科学館へ行き六階の劇場ではじめてプラネタリュウムを見た。 感激した。陶酔・・・ 織田作之助 「星の劇場」
・・・差し向いたる梅屋の一棟は、山を後に水を前に、心を籠めたる建てようのいと優なり。ゆくりなく目を注ぎたるかの二階の一間に、辰弥はまたあるものを認めぬ。明け放したる障子に凭りて、こなたを向きて立てる一人の乙女あり。かの唄の主なるべしと辰弥は直ちに・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ かれに恋人あり、松本治子とて、かれが二十二の時ゆくりなく相見て間もなく相思うの人となりぬ。十年互いに知りてついに路傍の石に置く露ほどの思いなく打ち過ぐるも人と人との交わりなり、今日見て今夜語り、その夜の夢に互いに行く末を契るも人と人と・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・深田久弥の間抜野郎と呟いて笑っているようなひどくいけない錯覚がひらひらちらついて困惑するほど、それほどたまらなく善良の人がらなのだよ、と私に教えて呉れたことがあったけれど、いま私も、こうして対坐して、ゆくりなく久保君の身のうえと、それから、・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・こんなお皿が、二つも三つも並べられて食卓に出されると、お客様はゆくりなく、ルイ王朝を思い出す。まさか、それほどでもないけれど、どうせ私は、おいしい御馳走なんて作れないのだから、せめて、ていさいだけでも美しくして、お客様を眩惑させて、ごまかし・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・ そう言って、軽くお辞儀をし、さちよも思わずそっとお辞儀をかえして、ゆくりなく顔を見合せ、ほ、ほと同時にはなやかに笑って、それから二人、気持よく泣いた。 十時に三木が、酔ってかえった。久留米絣に、白っぽいごわごわした袴をはいて、明治・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・ ○ 談話がゆくりなく目に見る花よりも口にする団子の方に転じた。東京の都人が食後に果物を食うことを覚え初めたのも、銀座の繁華と時を同じくしている。これは洋食の料理から、おのずと日本食の膳にも移って来たものであろ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・「はや去年のむかしとなりぬ。ゆくりなく君を文づかいにして、いや申すたつきを得ざりければ、わが身のこといかにおもいとりたまいけん。されどわれを煩悩の闇路よりすくいいでたまいし君、心の中には片時も忘れ侍らず」「近ごろ日本の風俗書きしふみ・・・ 森鴎外 「文づかい」
出典:青空文庫