・・・それから人力にゆられて夜ふけの日比谷御門をぬけ、暗いさびしい寒い練兵場わきの濠端を抜けて中六番町の住み家へ帰って行った。その暗い丸の内の闇の中のところどころに高くそびえたアーク燈が燦爛たる紫色の光を出してまたたいていたような気がする。そのこ・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・しばらくの別れを握手に告ぐる妻が鬢の後れ毛に風ゆらぎて蚊帳の裾ゆら/\と秋も早や立つめり。台所に杯盤の音、戸口に見送りの人声、はや出立たんと吸物の前にすわれば床の間の三宝に枳殼飾りし親の情先ず有難く、この枳殼誤って足にかけたれば取りかえてよ・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ 臨終には間に合わず、わざわざ飛んで来てくれたK君の最後のしらせに、人力にゆられて早稲田まで行った。その途中で、車の前面の幌にはまったセルロイドの窓越しに見る街路の灯が、妙にぼやけた星形に見え、それが不思議に物狂わしくおどり狂うように思・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・毛布に手をかけた瞬間に眼界が急に真暗になってからだが左右にゆらぐを覚えた。何とも知らずしまったという気がした。次の瞬間には自分の席の背後の扉の前に倒れていた。どうしてここまで来たかは全く覚えていない。何とも云えぬ苦悶が全身を圧え付けて冷たい・・・ 寺田寅彦 「病中記」
・・・乗合わせた農夫農婦などは銘々の大きな荷物に腰かけているからいいが、手ぶらの教授方以下いずれも立ったままでゆられながら、しきりに大気の物理を論じ合っていた。 地理学教室ではペンクや助手のベーアマンが引率して近郊の地質地理見学に出掛けた。ペ・・・ 寺田寅彦 「ベルリン大学(1909-1910)」
・・・自分の住まっている町から一里半余、石ころの田舎道をゆられながらやっとねえさんの宅へ着いた。門の小流れの菖蒲も雨にしおれている。もうおおぜい客が来ていて母上は一人一人にねんごろに一別以来の辞儀をせられる。自分はその後ろに小さくなって手持ちぶさ・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・と呼びながら一向出発せずに豆腐屋のような鈴ばかり鳴し立てている櫓舟に乗り、石川島を向うに望んで越前堀に添い、やがて、引汐上汐の波にゆられながら、印度洋でも横断するようにやっとの事で永代橋の河下を横ぎり、越中島から蛤町の堀割に這入るのであった・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・ 間もなく地面はぐらぐらとゆられ、そこらはばしゃばしゃくらくなり、象はやしきをとりまいた。グララアガア、グララアガア、その恐ろしいさわぎの中から、「今助けるから安心しろよ。」やさしい声もきこえてくる。「ありがとう。よく来てくれて・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・ そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云いながら、まるではね上りたいく・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・小船は、一つ一つの波にはゆられているが大局からみればちゃんと一定の方向で波全体を漕ぎわけてゆく。そのようにわたしたちは、起伏する社会現象をはげしく身にうけながら、そこからさまざまの感想と批判と疑問とをとり出しつつ、人間らしい人生を求める航路・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十五巻)」
出典:青空文庫