・・・ 大蔵委員会で、数百万の人々の生命に関する新給与問題を扱いながら酒に酔いくらって婦人代議士に無礼をするような閣僚をもつ政府はいやです、と全日本の婦人が発言したとして、それのどこが不自然だろうか。議員も閣僚たちもみんなわたしたちの税で、歳・・・ 宮本百合子 「今年のことば」
・・・しかし課長の出るのは八時三十分頃だから、八時までに役所へ行けば好いと思う。 そして頗る愉快げな、晴々とした顔をして、陰気な灰色の空を眺めている。木村を知らないものが見たら、何が面白くてあんな顔をしているかと怪むことだろう。 顔を洗い・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・「よい心持ちに酔いました。先日からかれこれと心づかいをいたしましたせいか、いつもより酒が利いたようでござります。ご免をこうむってちょっと一休みいたしましょう」 こう言って長十郎は起って居間にはいったが、すぐに部屋の真ん中に転がって、鼾を・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・わたくしも自分がかなり風采の好い男だとは思っていました。しかしまあ世間普通の好男子ですね。世間でおめかしをした Adonis なんどと云う性で、娘子の好く青年士官や、服屋の見本にかいてある男にある顔なのです。そこでわたくしは非常に反抗心を起・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・一度、人は心から自分の手の平を合して見るが良い。とどの詰りはそれより無く、もし有ったところで、それは物があるということだけかも知れぬ。人人の認識というものはただ見たことだけだ。雑念はすべて誤りという不可思議な中で、しきりに人は思わねばならぬ・・・ 横光利一 「鵜飼」
・・・男は響の好い、節奏のはっきりしたデネマルク語で、もし靴が一足間違ってはいないかと問うた。 果して己は間違った靴を一足受け取っていた。男は自分の過を謝した。 その時己はこの男の名を問うたが、なぜそんな事をしたのだか分からない。多分体格・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・ フィンクは今の声がまたすれば好いと思って待っている。そのうち果してまた声がする。「大勢の知らない方と一つ部屋で一晩暮すのは厭なものでございますね。そうでございましょう。人間というものは夜は変になりますのね。誰も誰も持っている秘密が・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・ですがその奥さまというのが、僕のためにはナンともいえない好い方で、その方の事を考えても、話にしても、何だか妙に嬉しいような悲しいような心持がして来るんです。美人といえばそれまでですが、僕はあんな高尚な、天人のような美人は見た事がないんです。・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・ この北条早雲の名において、『早雲寺殿二十一条』という掟書が残っているが、これはその内容の直截簡明な点において非常に気持ちの好いものである。その中で最も力説せられているのは「正直」であって、その点、伝統的な思想と少しも変わらないのである・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・劇場を出た時には三人とも歓びのあまり、酔いつぶれた人のように、気の狂った人のように、恥も外聞もなく、よろめいて歩いた。バアルはその夜徹夜して書きたいような心持ちになったが、筆をとってみると一語さえも書くことはできない。デュウゼについて初めて・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫