・・・自分は食後の茶を飲んで楊枝を使いながら、ここへ重吉が来たらどう取り扱ったものだろうと考えた。七 そこへ宿から迎えにやった車に乗って、彼はすぐかけつけてきた。彼に対する態度をまだよく定めていない自分には、彼の来かたがむしろ早す・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・などと考えて楊枝を使って、朝飯を済ましてまた例の件を片づけに出掛けて行った。 帰ったのは午後三時頃である。玄関へ外套を懸けて廊下伝いに書斎へ這入るつもりで例の縁側へ出て見ると、鳥籠が箱の上に出してあった。けれども文鳥は籠の底に反っ繰り返・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・今日、諸君のこの厚意に対して、心窃に忸怩たらざるを得ない。幼時に読んだ英語読本の中に「墓場」と題する一文があり、何の墓を見ても、よき夫、よき妻、よき子と書いてある、悪しき人々は何処に葬られているのであろうかという如きことがあったと記憶する。・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・本来の性質からは、それは幾何学のものよりも、一層明晰なものなのであるが、我々が感官から得た、幼時から馴された、種々なる先入見と一致せないかに見えるものから非常に注意深く、精神をできるだけ感官から引離そうと努力する人によってのみ理解せられるの・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・ 今年の春は、十年余も足帝都を踏まなかった余が、思いがけなくも或用事のために、東京に出るようになった、着くや否や東圃君の宅に投じた。君と余とは中学時代以来の親友である、殊に今度は同じ悲を抱きながら、久し振りにて相見たのである、単にいつも・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・ 回顧すれば、余の十四歳の頃であった、余は幼時最も親しかった余の姉を失うたことがある、余はその時生来始めて死別のいかに悲しきかを知った。余は亡姉を思うの情に堪えず、また母の悲哀を見るに忍びず、人無き処に到りて、思うままに泣いた。稚心にも・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・あの中世紀の魔教サバトの徒は、耶蘇とキリスト教とを冒涜する目的から、故意に模擬の十字架を立てて裸女を架け、或は幼児を架けて殺戮した。反キリストの詩人ニイチェの意味に於て、Ecce homo がまた同じく、キリスト教への魔教的冒涜を指示してゐ・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・「今時分、何の用事だい? 泥棒じゃあるめえし、夜中に踏み込まなくたって、逃げも隠れもしやしねえよ」 吉田は、そう考えることによって、何かのいい方法を――今までにもう幾度か最後の手段に出た方がいい、と考えたにも拘らず、改めて又、―・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・と、お熊は善吉の前に楊枝箱を出した。 善吉は吉原楊枝の房をむしッては火鉢の火にくべている。「お誂えは何を通しましょうね。早朝んですから、何も出来ゃアしませんよ。桶豆腐にでもしましょうかね。それに油卵でも」「何でもいいよ。湯豆腐は・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ * * * 吉里は用事をつけてここ十日ばかり店を退いているのである。病気ではないが、頬に痩せが見えるのに、化粧をしないので、顔の生地は荒れ色は蒼白ている。髪も櫛巻きにして巾も掛けずにいる。年も二歳ばかり・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫