・・・ある内容を表出せんとするにあたって、文語によると口語によるとは詩人の自由である。詩人はただ自己の最も便利とする言葉によって歌うべきである。という議論があった。いちおうもっともな議論である。しかし我々が「淋しい」と感ずる時に、「ああ淋しい」と・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ 目前へ路がついたように、座敷をよぎる留南奇の薫、ほの床しく身に染むと、彼方も思う男の人香に寄る蝶、処を違えず二枚の襖を、左の外、立花が立った前に近づき、「立花さん。」「…………」「立花さん。」 襖の裏へ口をつけるばかり・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ と言うなりに、こめかみの処へ頭痛膏を貼った顔を掉って、年増が真先に飛込むと、たちまち、崩れたように列が乱れて、ばらばらと女連が茶店へ駆寄る。 ちょっと立どまって、大爺と口を利いた少いのが、続いて入りざまに、「じゃあ、何だぜ、お・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・鯨の冬の凄じさは、逆巻き寄する海の牙に、涙に氷る枕を砕いて、泣く児を揺るは暴風雨ならずや。 母は腕のなゆる時、父は沖なる暗夜の船に、雨と、波と、風と、艪と、雲と、魚と渦巻く活計。 津々浦々到る処、同じ漁師の世渡りしながら、南は暖に、・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 中にも慎ましげに、可憐に、床しく、最惜らしく見えたのは、汽車の動くままに、玉の緒の揺るるよ、と思う、微な元結のゆらめきである。 耳許も清らかに、玉を伸べた頸許の綺麗さ。うらすく紅の且つ媚かしさ。 袖の香も目前に漾う、さしむかい・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ とまた云う、男は口を利くのも呼吸だわしそうに肩を揺る、……「就きましては、真に申兼ねましたが、その蝋燭でございます。」「蝋燭は分ったであす。」 小鼻に皺を寄せて、黒子に網の目の筋を刻み、「御都合じゃからお蝋は上げぬよう・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・旦那の智恵によると、鳥に近づくには、季節によって、樹木と同化するのと、また鳥とほぼ服装の彩を同じゅうするのが妙術だという。 それだから一夜に事の起った時は、冬で雪が降っていたために、鳥博士は、帽子も、服も、靴まで真白にしていた、と話すの・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・……次第に家ごと揺るほどになりましたのに、何という寂寞だか、あの、ひっそりと障子の鳴る音。カタカタカタ、白い魔が忍んで来る、雪入道が透見する。カタカタカタカタ、さーッ、さーッ、ごうごうと吹くなかに――見る見るうちに障子の桟がパッパッと白くな・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・ 三味線背負った乞食坊主が、引掻くようにもぞもぞと肩を揺ると、一眼ひたと盲いた、眇の青ぶくれの面を向けて、こう、引傾って、熟と紫玉のその状を視ると、肩を抽いた杖の尖が、一度胸へ引込んで、前屈みに、よたりと立った。 杖を径に突立て突立・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・次へ、それから、引続いて――一品料理の天幕張の中などは、居合わせた、客交じりに、わはわはと笑を揺る。年内の御重宝九星売が、恵方の方へ突伏して、けたけたと堪らなそうに噴飯したれば、苦虫と呼ばれた歯磨屋が、うンふンと鼻で笑う。声が一所で、同音に・・・ 泉鏡花 「露肆」
出典:青空文庫