・・・私は自分の考えることをこの子にも言って置きたいと思って、一生他人に依るようなこれまでの女の生涯のはかないことなどを話し聞かせた。 それにしても、筆執るものとしての私たちに関係の深い出版界が、あの世界の大戦以来順調な道をたどって来ていると・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・時評に依ると、お前の心境いよいよ澄み渡ったそうだね、あはは。家庭の幸福か。妻子のあるのは、お前ばかりじゃありませんよ。 図々しいねえ。此頃めっきり色が白くなったじゃないか。万葉を読んでいるんだってね。読者を、あんまり、だまさないで下さい・・・ 太宰治 「或る忠告」
・・・ と言って、這い寄る二歳の子を膝へ抱き上げた。 太宰治 「親という二字」
・・・兵隊へ行っても、合う服が無かったり、いろいろ目立って、からかわれ、人一倍の苦労をするのではあるまいかと心配していたのであったが、戸石君からのお便りによると、「隊には小生よりも背の大きな兵隊が二三人居ります。しかしながら、スマートというも・・・ 太宰治 「散華」
・・・て宛然まのあたり萩原某に面合わするが如く阿露の乙女に逢見る心地す相川それの粗忽しき義僕孝助の忠やかなる読来れば我知らず或は笑い或は感じてほと/\真の事とも想われ仮作ものとは思わずかし是はた文の妙なるに因る歟然り寔に其の文の巧妙なるには因ると・・・ 著:坪内逍遥 校訂:鈴木行三 「怪談牡丹灯籠」
・・・から来る常識の幻影に惑わされずに純理の道筋を踏んだのは、数学という器械の御蔭であるとしても、全く抽象的な数学の枠に万象の実世界を寸分の隙間もなく切りはめた鮮やかな手際は物理学者としてその非凡なえらさによるものと考えなければならない。 こ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・主な材料はモスコフスキーの著書に拠る外はなかった。要するに素人画家のスケッチのようなものだと思って読んでもらいたいのである。二 アルベルト・アインシュタインは一八七九年三月の出生である。日本ならば明治十二年卯歳の生れで数え年・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・人間は金のある所へ寄るが鳥獣の分布はやはり「すぐに取って食える食物」の分布できまるものらしい。 星野に小さな水力発電所がある。六十五キロだそうである。これくらいのかわいいのだといわゆる機械的バーバリズムの面影はなくて、周囲の自然となれ合・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・廓ではことにもその噂が立って、女たちは寄るとさわると、その話をしていた。長唄連中の顔ぶれでは、誰れが来るとか来ないとかいうことも問題になっていた。観劇料の高いことも評判であった。 道太は格別の興味も惹かなかったけれど、ある晩お絹と辰之助・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ お絹の説明によると、おひろは踊りもひとしきり高潮に達した時期があって、お絹自身が目を聳てたくらいだったが、やっぱりいろいろな苦労があって、芸事ばかりにも没頭していられなかった。「今の人はほんとに、ちょろつかなもんや。私に限らず、家・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫