・・・ 去年と同じ家のベランダに出て、軒にかぶさる厚朴の広葉を見上げ、屋前に広がる池の静かな水面を見おろしたときに、去年の夏の記憶がほんの二三日前のことであったようによみがえって来た。十か月以上の月日がその間に経過したとはどうしても思われなか・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・生き残った家鴨どもはわれわれには実によく馴ついて、ベランダの階段の一番上まで上がって来てパン屑をねだる。そうして人を頼る気持は犬や猫と同じであるような気がするが、しかしどうしても体躯には触らせまいとして手を出すと逃げる。それだけは「教育」で・・・ 寺田寅彦 「高原」
・・・その時自分は星野温泉別館の南向きのベランダで顕微鏡をのぞいていたが、爆音も気づかず、また気波も感じなかった。しかし本館のほうにいた水上理学士は障子にあたって揺れる気波を感知したそうである。また自分たちの家の裏の丘上の別荘にいた人は爆音を聞き・・・ 寺田寅彦 「小爆発二件」
・・・ここはもうフランスの国境近くで、屋敷のベランダから牧場越しに国境の森が見え、またヴォルテールの住まっていたという家も見えます。毛氈のような草原に二百年もたった柏の木や、百年余の栗の木がぽつぽつ並んで、その間をうねった小道が通っています。地所・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・西洋人は東洋暖地へ来てやっとバンガローのベランダ造りを思いついたようである。 障子というものがまた存外巧妙な発明である。光線に対しては乳色ガラスのランプシェードのように光を弱めずに拡散する効果があり、風に対してもその力を弱めてしかも適宜・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
ことしの夏、信州のある温泉宿の離れに泊まっていたある夜の事である。池を隔てた本館前の広場で盆踊りが行なわれて、それがまさにたけなわなころ、私の二人の子供がベランダの籐椅子に腰かけて、池の向こうの植え込みのすきから見える踊り・・・ 寺田寅彦 「人魂の一つの場合」
・・・階上にはベランダを廻らした二室があって、その一は父の書斎、一つは寝室であるが、そのいずれからも坐ながらにして、海のような黄浦江の両岸が一目に見渡される。父はわたくしに裏手の一室を与えて滞留中の居間にさせられた。この室にはベランダはなかったが・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・夏は、風通しよいところで食べられるような大ベランダがある。図書室がある。休憩室がある。此処では四十二カペイキで三皿たべられた。 地下室の炊事場では、薯の皮むきからよごれた皿洗いから、みんな機械だ。白い上っぱりにコック帽の料理人、元気な婦・・・ 宮本百合子 「ソヴェト労働者の解放された生活」
・・・寝床は妻の寝室と同じであるとしても、軽症者の静臥すべきベランダにあった。ベランダは花園の方を向いていた。彼はこのベランダで夜中眼が醒める度に妻より月に悩まされた。月は絶えず彼の鼻の上にぶらさがったまま皎々として彼の視線を放さなかった。その海・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫