・・・人ごみを離れたベンチの上に雑誌などを読んでいることがある。あるいはまた長いプラットフォオムの縁をぶらぶら歩いていることもある。 保吉はお嬢さんの姿を見ても、恋愛小説に書いてあるような動悸などの高ぶった覚えはない。ただやはり顔馴染みの鎮守・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・ 子爵の言につれて我々は、陳列室のまん中に据えてあるベンチへ行って、一しょに腰を下ろした。室内にはもう一人も人影は見えなかった。ただ、周囲には多くの硝子戸棚が、曇天の冷い光の中に、古色を帯びた銅版画や浮世絵を寂然と懸け並べていた。本多子・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・すると電燈の薄暗い壁側のベンチに坐っていた、背の高い背広の男が一人、太い籐の杖を引きずりながら、のそのそ陳の側へ歩み寄った。そうして闊達に鳥打帽を脱ぐと、声だけは低く挨拶をした。「陳さんですか? 私は吉井です。」 陳はほとんど無表情・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・白はただ夢のように、ベンチの並んでいる路ばたへ出ました。するとその路の曲り角の向うにけたたましい犬の声が起ったのです。「きゃん。きゃん。助けてくれえ! きゃあん。きゃあん。助けてくれえ!」 白は思わず身震いをしました。この声は白の心・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・ かたわらのベンチに腰懸けたる、商人体の壮者あり。「吉さん、今日はいいことをしたぜなあ」「そうさね、たまにゃおまえの謂うことを聞くもいいかな、浅草へ行ってここへ来なかったろうもんなら、拝まれるんじゃなかったっけ」「なにしろ、・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・この間に、早瀬、ベンチを立つ、お蔦縋るようにあとにつき、双方涙の目に月を仰ぎながら徐にベンチを一周す。お蔦さきに腰を落し、立てる早瀬の袂を控う。お蔦 あきらめられない、もう一度、泣いてお膝に縋っても、是非もしようもないのでし・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・ そのひっそりとした灯りを浴びて、新吉はちょぼんとベンチに坐り、大阪行きの電車を待っていると、ふと孤独の想いがあった。夜の底に心が沈んでいくようであった。 眼に涙がにじんでいたのは、しかし感傷ではなかった。四十時間一睡もせずに書き続・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・公園のベンチの上で浮浪者にまじって野宿していても案外似合うのだ。 そんな彼が戎橋を渡って、心斎橋筋を真直ぐ北へ、三ツ寺筋の角まで来ると、そわそわと西へ折れて、すぐ掛りにある「カスタニエン」という喫茶店へはいって行ったから、驚かざるを得な・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・言っておいてこちらを振り向くでもなく、眼はやはり遠い眺望へ向けたままで、さもやれやれといったふうに石垣のはなのベンチへ腰をかけた。―― 町を外れてまだ二里ほどの間は平坦な緑。I湾の濃い藍が、それのかなたに拡がっている。裾のぼやけた、そし・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・私はその娘の家のぐるりを歩いてはその下のベンチで休むのがきまりになっていました。(私の美に対する情熱が娘に対する情熱と胎を共にした双生児だったことが確かに信じられる今、私は窃盗に近いこと詐欺に等しいことをまだ年少だった自分がその末犯した・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
出典:青空文庫