・・・上のボートデッキでボーイと女船員が舞踊をやっていた。十三夜ぐらいかと思う月光の下に、黙って音も立てず、フワリフワリと空中に浮いてでもいるように。四月四日 日曜で早朝楽隊が賛美歌を奏する。なんとなく気持ちがいい。十時に食堂でゴッテスデ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・鐘が淵紡績の煙突草後に聳え、右に白きは大学のボートハウスなるべし、端艇を乗り出す者二、三。前は桜樹の隧道、花時思いやらる。八重桜多き由なれど花なければ吾には見分け難し。植半の屋根に止れる鳶二羽相対してさながら瓦にて造れるようなるを瓦じゃ鳥じ・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・また自刻の印章――ボート形の内に竪琴と星を刻したの――が押してある。自分の家の門や庭の芭蕉などの精密な写生があるかと思うと、裏田んぼの印象風景などもある。「くいしへ行くにはどっちですか」「神社」「アツマコート」「小女山道」「昼飯」「牛を追う・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・夏になると、水泳場また貸ボート屋が建てられる処もあるが、しかしそれは橋のかかっているあたりに限られ、橋に遠い堤防には祭日の午後といえども、滅多に散歩の人影なく、唯名も知れぬ野禽の声を聞くばかりである。 堤防は四ツ木の辺から下流になると、・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・われわれはそういう桟橋に漕いでいるボートをつないで弁当を食べたり腕のつかれを休めたりしたものであるが、或日或屋敷の桟橋へ出て釣をしている学生を見たが、われわれと年頃が同じくらいなので、一度ならず二度ならず、度重るにつれて、別に理由もなく互に・・・ 永井荷風 「向島」
・・・ 鉄のボートで出来た門は閉っていた。それは然し押せばすぐ開いた。私は階段を昇った。扉へ手をかけた。そして引いた。が開かなかった。畜生! 慌てちゃった。こっちへ開いたら、俺は下の敷石へ突き落されちまうじゃないか。私は押した。少し開きかけた・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・そしてわたしたちの代りにボートへ乗れた人たちは、きっとみんな助けられて、心配して待っているめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。さあ、もうじきですから元気を出しておもしろくうたって行きましょう。」青年は男の子のぬれたよう・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・柳の葉の垂れた池の畔で、ボートに横えられている濡れ鼠の姉を抱きしめて驚愕と安心とで泣きながらババはたずねる。「イレーネ、死ななかってよかったと思う?」やっと正気に戻ったイレーネは辛うじてききとれる声で「恥しいわ」と答える。そして、「このこと・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・橋の下では二艘ボートが若い女をのせ、イルミネーションのとけ込んでいる辺だけ小さく漕いでいる。 最近の二年間はすべてを変えた。ソヴェトの生産振興の為の五ヵ年計画は一一〇パーセントの全生産拡張プランとともに生活全線を社会主義再建設に向って勇・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
・・・歴史のはげしい波はこれらの女のひとたちから、生活のボートを漕ぎ手といっしょに奪ってしまった。溺れて死ぬまいとする婦人たちは、子供たちをかばいながら、そのためにあがきは一層不自由になり、疲れを早めながら、みんな自己流に水をかいて、やっと水面か・・・ 宮本百合子 「『この果てに君ある如く』の選後に」
出典:青空文庫