・・・ しかるにある時この醜態を先生に発見せられ、一喝「お前はなぜそんな見苦しい事をする。」と怒鳴られたので、原稿投函上の迷信は一時に消失してしまった。蓋し自分が絶対の信用を捧ぐる先生の一喝は、この場合なお観音力の現前せるに外ならぬのである。・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・と雷のごとき声はさらに一喝せり。半死の船子は最早神明の威令をも奉ずる能わざりき。 学生の隣に竦みたりし厄介者の盲翁は、この時屹然と立ちて、諸肌寛げつつ、「取舵だい」と叫ぶと見えしが、早くも舳の方へ転行き、疲れたる船子の握れる艪を奪い・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・ まさかこことは想わざりし、老媼は恐怖の念に堪えず、魑魅魍魎隊をなして、前途に塞るとも覚しきに、慾にも一歩を移し得で、あわれ立竦になりける時、二点の蛍光此方を見向き、一喝して、「何者ぞ。」掉冠れる蝦蟇法師の杖の下に老媼は阿呀と蹲踞りぬ。・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・そんなにあわてて騒ぐに及ばないと一喝した。そうしてその一喝した自分の声にさえ、実際は恐怖心が揺いだのであった。雨はますます降る。一時間に四分五分ぐらいずつ水は高まって来る。 強烈な平和の希望者は、それでも、今にも雨が静かになればと思う心・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・には老禅匠の一喝よりもタジタジとなった。 椿岳の畸行は書立てれば殆んど際限がないくらい朝から晩までが畸行の連続であった。芸術即生活は椿岳に由て真に実現されたので、椿岳の全生活は放胆自由な椿岳の画そのままの全芸術であった。それ故に椿岳の画・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・と大声に一喝した。この物凄い声が川面に鳴り響いた。 対岸の三人は喫驚したらしく、それと又気がついたかして忽ち声を潜め大急ぎで通り過ぎて了った。 富岡老人はそのまま三人の者の足音の聞こえなくなるまで対岸を白眼んでいたが、次第に眼を遠く・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・ 生意気な』と老人は底光りのする目を怒らして一喝した。そうすると黙ってそばに見ていた孫娘が急に老人の袖を引いて『お祖父さん帰りましょうお宅へ、ね帰りましょう』と優しく言った。僕はそれにも頓着なく『失敬だ、非常に失敬だ!』と叫んでわが満身・・・ 国木田独歩 「初恋」
・・・ 中隊長は、いきなり一喝した。「そいつはどこの人間だ! ぶち××ちまえ! 掴まえろ!」 命令に対して、怠慢をつぐなうため、早速銃をとって立ちあがるかと思いの外、彼の部下の顔には、××な、苦々しい感情があり/\と現れた。「うて・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・なんでも、その職人が、うっかり水だか湯だかを漱石にひっかけたので、漱石は霹靂の如き一喝を浴びせたのだそうである。まっぱだかで呶鳴ったのである。全裸で戦うのは、よほど腕力に自信のある人でなければ出来る芸当でない。漱石には、いささか武術の心得が・・・ 太宰治 「花吹雪」
出典:青空文庫