・・・ 一匹の犬が豊吉の立っているすぐそばの、寒竹の生垣の間から突然現われて豊吉を見て胡散そうに耳を立てたが、たちまち垣の内で口笛が一声二声高く響くや犬はまた駆け込んでしまった。豊吉は夢のさめたようにちょっと目をみはって、さびしい微笑を目元に・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・お三輪が娘時分に朝寝の枕もとへ来て、一声で床を離れなかったら、さっさと蒲団を片付けてしまわれるほど厳しい育て方をされたのも母だ。そういう母が同じ浦和生れの父を助けて小竹の店を持つ前に、しばらく日本橋石町の御隠居さんの家に勤めていた頃は、朝も・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・けれども、かなりの重傷で、とても助からぬと見て竹青は、一声悲しく高く鳴いて数百羽の仲間の烏を集め、羽ばたきの音も物凄く一斉に飛び立ってかの舟を襲い、羽で湖面を煽って大浪を起し忽ち舟を顛覆させて見事に報讐し、大烏群は全湖面を震撼させるほどの騒・・・ 太宰治 「竹青」
・・・進むというような奇妙な腕の振り工合で、そうしてまっぱだかにパンツ一つ、もちろん裸足で、大きい胸を高く突き上げ、苦悶の表情よろしく首をそらして左右にうごかし、よたよたよたと走って局の前まで来て、ううんと一声唸って倒れ、「ようし! 頑張った・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・ 砂漠でらくだがうずくまっていると飛行機の音が響いて来る、するとらくだが驚いて一声高くいなないて立ち上がる。これだけで芝居のうそが生かされて熱砂の海が眼前に広げられる。ホテルの一室で人が対話していると、窓越しに見える遠見の屋上でアラビア・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・だんだんに締めつけられて、虎は息苦しそうにはあはあとあえぐのであるが、それでも少しもうろたえたような、弱ったような様子の見えないのはさすがにえらい。一声高く咆哮しておどり上がりおどり上がると、だだっ子の兵児帯がほどけるように大蛇の巻き線がゆ・・・ 寺田寅彦 「映画「マルガ」に現われた動物の闘争」
・・・と父は鋭い叱の一声。然し、母上は懐の片手を抜いて、静に私の頭を撫で、「また、狐が出て来ました。宗ちゃんの大好きなを喰べてしまったんですって。恐いじゃありませんか。おとなしくなさい。」 雪は紛々として勝手口から吹き込む。人達の下駄の歯・・・ 永井荷風 「狐」
・・・鉄漿溝は泡立ッたまま凍ッて、大音寺前の温泉の烟は風に狂いながら流れている。一声の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した上野の一番汽車は、見る見る中に岡の裾を繞ッて、根岸に入ッたかと思うと、天王寺の森にその煙も見えなくなッた。 この文を読・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・そうして一声も鳴かなかった。「おっつあん、うまくいっちゃった」と先刻の対手は釣してある蓆から首を突っ込んだ。蚊帳の中は動かない。彼は太十の蚊帳をまくった。太十は凝然と目をしかめて居る。「おっつあん、ありゃどうしたもんだべな」・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・「一声でほととぎすだと覚る。二声で好い声だと思うた」と再び床柱に倚りながら嬉しそうに云う。この髯男は杜鵑を生れて初めて聞いたと見える。「ひと目見てすぐ惚れるのも、そんな事でしょか」と女が問をかける。別に恥ずかしと云う気色も見えぬ。五分刈・・・ 夏目漱石 「一夜」
出典:青空文庫