・・・こう云う柔かい美しさは一寸他の作家達には発見出来ない。僕はそこに若々しい一本の柳に似た感じを受けている。 いつか僕は仕事をしかけた犬養君に会った事があった。その時僕の見た犬養君の顔は女人と交った後のようだった。僕は犬養君を思い出す度にか・・・ 芥川竜之介 「犬養君に就いて」
・・・彼れは与十の妻を見ると一寸ほほえましい気分になって、「おっかあ、火種べあったらちょっぴり分けてくれずに」といった。与十の妻は犬に出遇った猫のような敵意と落着きを以て彼れを見た。そして見つめたままで黙っていた。 仁右衛門は脂のつま・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 奥さんは遠慮らしく夫の顔を一寸見て、すぐに横を向いて、珈琲の支度が忙しいというような振をする。フレンチが一昨日も昨日も感じていて、友達にも話し、妻にも話した、死刑の立会をするという、自慢の得意の情がまた萌す。なんだかこう、神聖なる刑罰・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・宿屋の硯を仮寝の床に、路の記の端に書き入れて、一寸御見に入れたりしを、正綴にした今度の新版、さあさあかわりました双六と、だませば小児衆も合点せず。伊勢は七度よいところ、いざ御案内者で客を招けば、おらあ熊野へも三度目じゃと、いわれてお供に早が・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・そんな訣から一寸物に書いて置こうかという気になったのである。 僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。矢切の斎藤と云えば、この界隈での旧家で、里見の崩れが二三人ここへ落ちて・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・と手を合せておがみ夜ぎりの中に出てゆくあとで娘が云うには「一寸一寸、今の坊さんはネ、風呂敷包の中に小判を沢山皮の袋に入れたのをもって居らっしゃるのを見つけたんですよ、だから、御つれもないんだから誰も知る人もありませんから殺してあの御金をおと・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・もしその皮の上に一寸した染が出来るとか、一寸した創が付くとかしますと、わたくしはどんなにしてでも、それを癒やしてしまわずには置かれませんでした。わたくしはその恋愛が非常に傷けられたと存じました時、そのために、長煩いで腐って行くように死なずに・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・まさにその墓は、一寸の木標にて足れりとする。殺風景な俗臭の抜けきらぬ、これ等の墓牌より、どれ程、行路病者のさゝやかな木標が、自然に近いか知れない。 たゞ、文芸の士に於ては、後世に遺した仕事の吟味である。果して、彼等の幾何、再検討を請求し・・・ 小川未明 「ラスキンの言葉」
私の実見は、唯のこれが一度だが、実際にいやだった、それは曾て、麹町三番町に住んでいた時なので、其家の間取というのは、頗る稀れな、一寸字に書いてみようなら、恰も呂の字の形とでも言おうか、その中央の棒が廊下ともつかず座敷ともつ・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・そして、一寸考えて、オムライスを注文した。 やがて、それを平げると、暫らく水を飲んでいたが、ふと給仕をよんで、再びカレーライスを注文した。十分後にはにぎり寿司を頬張っていた。 私は彼の旺盛な食慾に感嘆した。その逞しさに畏敬の念すら抱・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
出典:青空文庫