・・・ それから女は身に纏った、その一重の衣を脱ぎ捨てまして、一糸も掛けざる裸体になりました。小宮山は負惜、此奴温泉場の化物だけに裸体だなと思っておりまする。女はまた一つの青い色の罎を取出しましたから、これから怨念が顕れるのだと恐を懐くと、か・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ この分なら、これから頼って行く細工谷町の友人の家は、無事に残っているかも知れないと、思いながら四ツ辻まで来た時、小沢はどきんとした。 一糸もまとわぬ素裸の娘が、いきなり小沢の眼の前に飛び出して来たのである。 雨に濡れているので・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・それこそ火を吐くほどの恋の主張を、一字一字書き写しているうちに、彼は、これまで全く知らずにいた女の心理を、いや、女の生理、と言い直したほうがいいかも知れぬくらいに、なまぐさく、また可憐な一筋の思いを、一糸纏わぬ素はだかの姿で見てしまったよう・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・私は一糸みだれぬ整うた意志でもって死ぬるのだ。見るがよい。私の知性は、死ぬる一秒まえまで曇らぬ。けれどもひそかに、かたちのことを気にしていたのだ。清潔な憂悶の影がほしかった。私の腕くらいの太さの枝にゆらり、一瞬、藤の花、やっぱりだめだと望を・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・の教科書の記事は、人間の社会生活と一糸の連絡もない。しかし、そういうものを読んだことのない小説家と、それを読み深く味わったことのある小説家とではその作品になんらかのちがった面目が現われないわけにはゆかないであろう。熱力学の方則を理解した作者・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・ただ一筋の系統によって一糸乱れぬ物理学の系統を立てようという希望は決して悪くはないが、人間の便宜という点から考えるとそれはむしろ不便である。大通りが縦横に交差してその間にはまた多数の「抜け裏」のあるような、そういう複雑な系統として保存し発達・・・ 寺田寅彦 「物理学と感覚」
・・・と、芸術の光背を負うて陸離たるが如くあった室生犀星氏が、近頃の抱負として「家ではよき父であり夫であり、規律を守り一家一糸をも乱さず暮したい」「対人的には朋友を信じ博愛衆に及ぼし」近衛文麿、永井柳太郎等が文学を判ろうとしている誠意に感奮して、・・・ 宮本百合子 「文学における今日の日本的なるもの」
・・・「一家一糸も乱れざる」日常生活を自分に律したり、義理人情に溺れ込む快さに我から溺れ込むことを、人民の心のあたたかみにとけ合うことと思いちがいしたり、初老に近づく日本人の或る感情と民衆性とが危くも縺れあっていると思わせるところさえあるのである・・・ 宮本百合子 「文学の大衆化論について」
・・・伯母は家の中の拭き掃除をするとき、お茶や生花の師匠のくせに一糸も纏わぬ裸体でよく掃除をした。ある時弟子の家の者が歳暮の餅を持ってがらりと玄関の戸を開けて這入って来た時、伯母は、ちょうどそこの縁側を裸体で拭いていた。私ははらはらしてどうするか・・・ 横光利一 「洋灯」
出典:青空文庫