・・・ 十三 橘之助は垢の着かない綺麗な手を胸に置いて、香の薫を聞いていたが、一縷の煙は二条に細く分れ、尖がささ波のようにひらひらと、靡いて枕に懸った時、白菊の方に枕を返して横になって、弱々しゅう襟を左右に開いたのを、・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・されば深更一縷の燈火をもお貞は恐れて吹消し去るなり。 渠はしかく活きながら暗中に葬り去られつ。良人を殺せし妻ながら、諸君請う恕せられよ。あえて日光をあびせてもてこの憐むべき貞婦を射殺すなかれ。しかれどもその姿をのみ見て面を見ざる、諸君は・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・、往来のまん中に脱ぎ捨てたる草鞋の片足の、霜に凍て附きて堅くなりたること、路傍にすくすくと立ち併べる枯れ柳の、一陣の北風に颯と音していっせいに南に靡くこと、はるかあなたにぬっくと立てる電燈局の煙筒より一縷の煙の立ち騰ること等、およそ這般のさ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ 時に一縷の暗香ありて、垣の内より洩れけるにぞ法師は鼻を蠢めかして、密に裡を差覗けば、美人は行水を使いしやらむ、浴衣涼しく引絡い、人目のあらぬ処なれば、巻帯姿繕わで端居したる、胸のあたりの真白きに腰の紅照添いて、眩きばかり美わしきを、蝦・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・いわんや一縷の望みを掛けているものならば、なおさらその覚悟の中に用意が無ければならぬ。 何ほど恐怖絶望の念に懊悩しても、最後の覚悟は必ず相当の時機を待たねばならぬ。 豪雨は今日一日を降りとおして更に今夜も降りとおすものか、あるいはこ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・それで医者ならば生き返らせることができるかとの一縷の望みをかけて、いっせいに医者に思いをあつめた。自分はその時までも、肌に抱き締めあたためていた子どもを、始めて蒲団の上へはなした。冷然たる医者は一、二語簡単な挨拶をしながら診察にかかった。し・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・ 鴎外が抽斎や蘭軒等の事跡を考証したのはこれらの古書校勘家と一縷の相通ずる共通の趣味があったからだろう。晩年一部の好書家が斎展覧会を催したらドウだろうと鴎外に提議したところが、鴎外は大賛成で、博物館の一部を貸してもイイという咄があった。・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 六 医者が今日日の暮までがどうもと小首をひねった危篤の新造は、注射の薬力に辛くも一縷の死命を支えている。夜は十二時一時と次第に深けわたる中に、妻のお光を始め、父の新五郎に弟夫婦、ほかに親内の者二人と雇い婆と、合わせ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・秋の空澄み渡って三里隔つる元越山の半腹からまっすぐに立ち上る一縷の青煙すら、ありありと目に浮かんで来る。そこで自分は当時の日記を出して、かしこここと拾い読みに読んではその時の風光を思い浮かべていると『兄さんお宅ですか』と戸外から声を掛け・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・ しかし、心では一縷の望みを捨て切れなかった。 すぐ、眼の前の一軒の農家がめらめら燃えている。燃えはじめてから燃え尽きるまで、実に永い時間がかかるものだ。屋根や柱と共にその家の歴史も共に炎上しているのだ。 しらじらと夜が明けて来・・・ 太宰治 「薄明」
出典:青空文庫