・・・――いや勇之助が三歳の時、たった一遍、親だと云う白粉焼けのした女が、尋ねて来た事がありました。しかしこれは捨児を種に、悪事でもたくらむつもりだったのでしょう。よくよく問い質して見ると、疑わしい事ばかりでしたから、癇癖の強い日錚和尚は、ほとん・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・もう一遍君等と一緒に寄宿舎の飯を喰た時代に返りたい」と、友人は寝巻に着かえながらしみじみ語った。下の座敷から年上の子の泣き声が聞えた。つづいて年下の子が泣き出した。細君は急いで下りて行った。「あれやさかい厭になってしまう。親子四人の為め・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・勝子」今度は義兄の番だ。「ちがいますともわらびます」「ううん」鼻ごえをして、勝子は義兄を打つ真似をした。義兄は知らん顔で「ちがいますともわらびます。あれ何やったな。勝子。一遍峻さんに聞かしたげなさい」 泣きそうに鼻をならし出・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・それはそのお婆さんがある日上がり框から座敷の長火鉢の方へあがって行きかけたまま脳溢血かなにかで死んでしまったというので非常にあっけない話であったが、吉田の母親はあのお婆さんに死なれてはあの娘も一遍に気を落としてしまっただろうとそのことばかり・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・と磯は腹の空いた訳と二円外前借が出来なかった理由を一遍に話して了った。そして話し了ったころ漸と箸を置いた。 全体磯吉は無口の男で又た口の利きようも下手だがどうかすると啖火交りで今のように威勢の可い物の言い振をすることもある、お源にはこれ・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・それに正月は来よるし、……ひとつお前さんからもう一遍、親方に頼んでみておくれんか。」 杜氏はいや/\ながら主人のところへ行ってみた。主人の云い分は前と同じことだった。「やっぱり仕様がないわい。」杜氏は帰って来て云った。「その代り・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・ エマーソンとラスキンの言葉を加えて二で割って、もう一遍これを現在のある過激な思想で割るとどうなるだろう。これは割り切れないかもしれない。もし割り切れたら、その答はどうなるだろう。あらゆる思想上の偉人は結局最も意気地のない人間であったと・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・日本の芸術がフランスを一と廻わりして後にもう一遍日本へ帰って来たのである。 洋画でも日本画でも人物の顔をなるべくスチューピッドに描く事が近年の流行のようである。悪趣味であると思う。これが東京音頭の流行となんらかの関係があるかどうかは不明・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・ S先生が生きてさえおられれば、もう一遍よく御尋ねして確かめる事が出来るのであるが残念なことには数年前に亡くなられたので、もうどうにも取返しがつかない。もしS先生の御遺族なりあるいは親しかった人達を尋ねて聞いて歩いたら、あるいはその断片・・・ 寺田寅彦 「埋もれた漱石伝記資料」
・・・宿の主人は潜水業者であったが、ある日潜水から上がると身体中が痺れて動けなくなったので、それを治すためにもう一遍潜水服を着せて海へ沈めたりしたが、とうとうそれっきりになってしまった。自分等は離屋にいたのでその騒ぎを翌日まで知らなかった。その二・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
出典:青空文庫