・・・ ことにこの一、二年はこの詩集すら、わずかに二、三十巻しかないわが蔵書中にあってもはなはだしく冷遇せられ、架上最も塵深き一隅に放擲せられていた。否、一月に一度ぐらいは引き出されて瞥見された事もあったろう、しかし要するに瞥見たるに過ぎない・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・谷間から丘にかけて一帯に耕地が固くなって荒れるがまゝにされている中に、その一隅の麦畑は青々と自分の出来ばえを誇っているようだった。 二 もう今日か明日のうちに腹から仔豚が出て来るかも知れんのだが、そういうやつを野ッ原・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・ 庭は一隅の梧桐の繁みから次第に暮れて来て、ひょろ松檜葉などに滴る水珠は夕立の後かと見紛うばかりで、その濡色に夕月の光の薄く映ずるのは何とも云えぬすがすがしさを添えている。主人は庭を渡る微風に袂を吹かせながら、おのれの労働が為り出した快・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・と自ら疑うように又自ら歎ずるように、木沢は室の一隅を睨んだ。 其後幾日も無くて、河内の平野の城へ突として夜打がかかった。城将桃井兵庫、客将一色何某は打って取られ、城は遊佐河内守等の拠るところとなった。其一党は日に勢を増して、・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・あいにくと、世にもまれに見る可憐な少年の写真が、ある日の紙面の一隅に大きく掲げてあった。評判の一太だ。美しい少年の生前の面影はまた、いっそうその死をあわれに見せていた。 末子やお徳は茶の間に集まって、その日の新聞をひろげていた。そこへ三・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・公園の蓮池を前に、桜やアカシヤが影を落している静かな一隅が、お三輪の目ざして行ったところだ。葦簾で囲った休茶屋の横手には、人目をひくような新しい食堂らしい旗も出ている。それには、池に近い位置に因んで「池の茶屋」とした文字もあらわしてある。お・・・ 島崎藤村 「食堂」
人物甲、夫ある女優。乙、夫なき女優。婦人珈琲店の一隅。小さき鉄の卓二つ。緋天鵞絨張の長椅子一つ。椅子数箇。○甲、帽子外套の冬支度にて、手に上等の日本製の提籠を持ち入り来る。乙、半ば飲みさしたる麦酒の小瓶を前に置き、絵・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・三年後には、私も、きっと、その記念写真の一隅に立たせてもらえる。私は、からだが悪いから、ひょっとしたら、その写真にいれてもらうまえに、死ぬかも知れない。そのときには、私の家の人たちは、その記念写真の右上に白い花環で囲んだ私の笑顔を写し込む。・・・ 太宰治 「花燭」
・・・という部屋へさがって、その一隅に坐った。長兄の嫂も、次兄の嫂も、笑顔を以て迎えて呉れた。祖母も、女中に手をひかれてやって来た。祖母は八十六歳である。耳が遠くなってしまった様子だが、元気だ。妻は園子にも、お辞儀をさせようとして苦心していたが、・・・ 太宰治 「故郷」
・・・暗いからわからぬが、何か釜らしいものが戸外の一隅にあって、薪の余燼が赤く見えた。薄い煙が提燈を掠めて淡く靡いている。提燈に、しるこ一杯五銭と書いてあるのが、胸が苦しくって苦しくってしかたがないにもかかわらずはっきりと眼に映じた。 「しる・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫