・・・ 牧野はお蓮の手を突つきながら、彼一人上機嫌に笑い崩れた。 しかし牧野はいつまでも、その景気を保っていられなかった。犬は彼等が床へはいると、古襖一重隔てた向うに、何度も悲しそうな声を立てた。のみならずしまいにはその襖へ、がりがり前足・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ 譚は上脣を嘗めながら、前よりも上機嫌につけ加えた。「それから君は斬罪と言うものを見たがっていることを話しているんだ。」「何だ、つまらない。」 僕はこう言う説明を聞いても、未だに顔を見せない玉蘭は勿論、彼女の友だちの含芳にも・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・御主人はわたしが呆れたように、箸もつけないのを御覧になると、上機嫌に御笑いなさりながら、こう御勧め下さいました。「どうじゃ、その汁の味は? それはこの島の名産の、臭梧桐と云う物じゃぞ。こちらの魚も食うて見るが好い。これも名産の永良部鰻じ・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・ 将軍はまだ上機嫌だった。「わしはすぐに靴と睨んだ。」「どうもこの辺の住民はいけません。我々がここへ来た時も、日の丸の旗を出したのですが、その癖家の中を検べて見れば、大抵露西亜の旗を持っているのです。」 旅団長も何か浮き浮き・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・その日の酒は勿論彼れを上機嫌にした。一緒に飲んでいるものが利害関係のないのも彼れには心置きがなかった。彼れは酔うままに大きな声で戯談口をきいた。そういう時の彼れは大きな愚かな子供だった。居合せたものはつり込まれて彼れの周囲に集った。女まで引・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 秋の一夜偶然尋ねると、珍らしく微醺を帯びた上機嫌であって、どういう話のキッカケからであったか平生の話題とは全で見当違いの写真屋論をした。写真屋の資本の要らない話、資本も労力も余り要らない割合には楽に儲けられる話、技術が極めて簡単だから・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・罎のようだったから、訳がわからず、変な顔をしていると、男は上機嫌に、「石油だ。石油だす。停留場の近所まで行て、買うて来ましてん。言うだけやったら、なんぼ言うたかてあんたは飲みなはれんさかい、こら是が非でも膝詰談判で飲まさな仕様ない思て、・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 軽部君がねえ、そんなことをやったかねえ、こいつは愉快だ、と上機嫌に笑うばかりで、てんで私の話なんか受けつけようとしなかった。私はなんだか自分までが馬鹿にされたような気になり、ああ、いやだ、いやだ、昼行燈みたいにぼうっとして、頼りない人だと・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・と淡海節の文句を言い出すほどの上機嫌だった。向い側の果物屋は、店の半分が氷店になっているのが強味で氷かけ西瓜で客を呼んだから、自然、蝶子たちは、切身の厚さで対抗しなければならなかった。が、言われなくても種吉の切り方は、すこぶる気前がよかった・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・二度目はこの三月で、私の部屋借りの寺へ二晩泊って上機嫌で酒を飲んで弟にお伴されて帰って行ったが、それが私との飲み納めだった。私は弟からの電話でこの八日に出てきたが、それから六日目の十三日に父は死んだのだった。「やっぱし死にに出てきたよう・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
出典:青空文庫