・・・そう云うことにも気づかなかったと云うのは……… 保吉は下宿へ帰らずに、人影の見えない砂浜へ行った。これは珍らしいことではない。彼は一月五円の貸間と一食五十銭の弁当とにしみじみ世の中が厭になると、必ずこの砂の上へグラスゴオのパイプをふかし・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・彼はある素人下宿の二階に大島の羽織や着物を着、手あぶりに手をかざしたまま、こう云う愚痴などを洩らしていた。「日本もだんだん亜米利加化するね。僕は時々日本よりも仏蘭西に住もうかと思うことがある。」「それは誰でも外国人はいつか一度は幻滅・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・何日かの話の下宿の娘から縁談でも申込まれて逃げ出したのか。B 莫迦なことを言え。女の事なんか近頃もうちっとも僕の目にうつらなくなった。女より食物だね。好きな物を食ってさえいれあ僕には不平はない。A 殊勝な事を言う。それでは今度の下宿・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享け・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・お道具は揃ったけれど、何だかこの二階の工合が下宿のようじゃありませんか。」 四「それでもね、」 とあるじは若々しいものいいで、「お民さんが来てから、何となく勝手が違って、ちょっと他所から帰って来ても、何だ・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 大通へ抜ける暗がりで、甘く、且つ香しく、皓歯でこなしたのを、口移し…… 九 宗吉が夜学から、徒士町のとある裏の、空瓶屋と襤褸屋の間の、貧しい下宿屋へ帰ると、引傾いだ濡縁づきの六畳から、男が一人摺違いに出て行・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ その頃私は神田小川町に下宿していた。忌々しくてならないので、帰ると直ぐ「鴎外を訪うて会わず」という短文を書いて、その頃在籍していた国民新聞社へ宛ててポストへ入れに運動かたがた自分で持って出掛けた。で、直ぐ近所のポストへ投り込んでからソ・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 緑雨が初めて私の下宿を尋ねて来たのはその年の初冬であった。当時は緑雨というよりは正直正太夫であった。私の頭に深く印象しているは「小説八宗」であって、驚くべき奇才であるとは認めていたが、正直正太夫という名からして寄席芸人じみていて何とい・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
古来例のない、非常な、この出来事には、左の通りの短い行掛りがある。 ロシアの医科大学の女学生が、ある晩の事、何の学科やらの、高尚な講義を聞いて、下宿へ帰って見ると、卓の上にこんな手紙があった。宛名も何も書いてない。「あなたの御関係・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ お君が上本町九丁目の軽部の下宿先へ写本を届けに行くと、二十八の軽部はぎょろりとした眼をみはった。裾から二寸も足が覗いている短い着物をお君は着て、だから軽部は思わず眼をそらした。女は出世のさまたげ。熱っぽいお君の臭いにむせながら、日・・・ 織田作之助 「雨」
出典:青空文庫