・・・第一、順と見えて、六十を越えたろう、白髪のお媼さんが下足を預るのに、二人分に、洋杖と蝙蝠傘を添えて、これが無料で、蝦蟇口を捻った一樹の心づけに、手も触れない。 この世話方の、おん袴に対しても、――――軽少過ぎる。卓子を並べて、謡本少々と・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・きちんと下駄をぬぎ、文壇進歩党の代弁者である批評家から、下足札を貰って上るような作品しかない。「ファビアン」や「ユリシーズ」は土足のままの文学だ。僕は土足のままとまで行かなくても、せめて下足番から下駄を……と言われた時、いや僕ははじめからは・・・ 織田作之助 「土足のままの文学」
・・・フェルト草履は、見た眼にも優雅で、それに劇場や図書館、その他のビルディングにはいる時でも、下駄の時のように下足係の厄介にならずにすむから、私も実は一度はいてみた事があるのであるが、どうも、足の裏が草履の表の茣蓙の上で、つるつる滑っていけない・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・出口へ出るとそこでは下足番の婆さんがただ一人落ち散らばった履物の整理をしているのを見付けて、預けた蝙蝠傘を出してもらって館の裏手の集団の中からT画伯を捜しあてた。同君の二人の子供も一緒に居た。その時気のついたのは附近の大木の枯枝の大きなのが・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・この自動車と相対して、おそらく我が日本だけに特有な下足預り所なるものがある。「ステッキはコチラデスヨー」などという極めてプロレタリアンな声が、労働階級の細君ででもあるらしい下足番の口から響いて来る。それからあのいつもの漆喰細工の大玄関をはい・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・ ことしの十月十三日の午後彼は上野へ出かける途中で近所の某富豪の家の前を通ったら、玄関におおぜいの男女のはき物やこうもり傘が所狭く並べられて、印絆纏の下足番がついていた。そうして門に向かった洋風の大きな応接間の窓からはラジオの放送が騒然・・・ 寺田寅彦 「野球時代」
・・・演壇のまわりを、組合員と学生が五十人ばかりとりまいているほかは、ひろい公会堂の隅の方に、一般聴衆の三人五人が下足をつまんで、中腰にしゃがんでいる。そしてそんな聴衆も、高島が演壇にでてきて五分もたつと、ぶえんりょに欠伸などしながら帰ってしまっ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・表口では下足番の男がその前から通りがかりの人を見て、入らっしゃい、入らっしゃいと、腹の中から押出すような太い声を出して呼びかけている。わたくしは帳場から火種を貰って来て、楽屋と高座の火鉢に炭火をおこして、出勤する芸人の一人一人楽屋入するのを・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・大工のみにかぎらず、無尽講のくじ、寄せ芝居の桟敷、下足番の木札等、皆この法を用うるもの多し。学者の世界に甲乙丙丁の文字あれども、下足番などには決して通用すべからず。いろはの用法、はなはだ広くして大切なるものというべし。 然るに不思議なる・・・ 福沢諭吉 「小学教育の事」
・・・そして、下足に預ける。皆がそれをやるからひどい混雑でいやな思いもする。近所のその映画館は小さくて、きたないかわり、防寒靴をはいたままでよかった。それがたいへんに気易い。切符を買って、入るとそこが広間の待合室で、真中に緑色の縮緬紙の大きな蝶結・・・ 宮本百合子 「映画」
出典:青空文庫