・・・ 二十日の暮れて間もない時分、カツカツとあわただしい下駄の音がしました。病人が例の耳で、「良吉だ、試験はよかったなあ」という間もなく入口ががらりと開いて「お母さん、はいりました」と言いつつ弟は台所に上って、声を上げて泣きだしました、この・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ 新京極に折れると、たてた戸の間から金盥を持って風呂へ出かけてゆく女の下駄が鳴り、ローラースケートを持ち出す小店員、うどんの出前を運ぶ男、往来の真中で棒押しをしている若者などが、異様な盛り場の夜更けを見せている。昼間は雑閙のなかに埋れて・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ 見ればなるほど三畳敷の一間に名ばかりの板の間と、上がり口にようやく下駄を脱ぐだけの土間とがあるばかり、その三畳敷に寝床が二つ敷いてあって、豆ランプが板の間の箱の上に載せてある。その薄い光で一ツの寝床に寝ている弁公の親父の頭がおぼろに見・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・あるときいざりがめぐっていたのを、うしろから下駄で蹴とばした者があった。すると忽ちいざりの脚が立って、蹴とばした者の脚が立たなくなってへたばりこんでしまったという。即ちバチが、それこそテキ面だったのである。またあるとき、盲目の眼があいた。と・・・ 黒島伝治 「海賊と遍路」
・・・ 主人は打水を了えて後満足げに庭の面を見わたしたが、やがて足を洗って下駄をはくかとおもうとすぐに下女を呼んで、手拭、石鹸、湯銭等を取り来らしめて湯へいってしまった。返って来ればチャンと膳立てが出来ているというのが、毎日毎日版に摺ったよう・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・大方出来たらしい噂の土地に立ったを小春お夏が早々と聞き込み不断は若女形で行く不破名古屋も這般のことたる国家問題に属すと異議なく連合策が行われ党派の色分けを言えば小春は赤お夏は萌黄の天鵞絨を鼻緒にしたる下駄の音荒々しく俊雄秋子が妻も籠れりわれ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・「だって下駄がないじゃありませんか」「あたしだって足袋のままですわ」 自分もそれなり降りて花床を跨ぐ。はかなげに咲き残った、何とかいう花に裾が触れて、花弁の白いのがはらはらと散る。庭は一面に裏枯れた芝生である。離れの中二階の横に・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ その時、矢庭に夫は、下駄を突っかけて外に飛び出ようとしました。「おっと、そいつあいけない」 男のひとは、その夫の片腕をとらえ、二人は瞬時もみ合いました。「放せ! 刺すぞ」 夫の右手にジャックナイフが光っていました。その・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・晴れた日には庭一面におしめやシャツのような物を干す、軒下には缶詰の殻やら横緒の切れた泥塗れの女下駄などがころがっている。雨の日には縁側に乳母車があがって、古下駄が雨垂れに濡れている。家の中までは見えぬがきたなさは想像が出来る。細君からして随・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・いつでも脅かしに男下駄を玄関に出しておくのが、お京の習慣で、その日も薩摩下駄が一足出ていた。米材を使ってはあったけれど住み心地よくできていた。 不幸なお婆さんが、一人そこにいた。お絹の家の本家で、お絹たちの母の従姉にあたる女であったが、・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫