・・・一夜彼女が非常に巨大の無気味の魚を、たしなみを忘れて食い尽し、あとでなんだかその魚の姿が心に残る。女性の心に深く残るということは、すなわちそろそろ、肉体の細胞の変化がはじまっている証拠なのである。たちまち加速度を以て、胸焼きこげるほどに海辺・・・ 太宰治 「女人訓戒」
・・・赤あかさびの浮いた水には妙に無気味な感覚があって、どこかの草むらから錦の色をした蛇でも這出しそうな気がした。こうしたじめじめした池沼のほとりの雰囲気はいつも自分の頭のどこかに幼い頃から巣くっている色々な御伽噺中の妖精を思い出すようである。・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・ドック近くの裏町の門々にたたずむ無気味な浮浪人らの前をいばって通り抜けて川岸へくると護岸に突っ立ったシルクハットのだぶだぶルンペンが下手な掛け図を棒でたたきながら Die Moriat von Mackie Messer を歌っている。伴奏・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ どちらかといえば、深谷のほうがこんな無気味な淋しい状態からは、先に神経衰弱にかかるのが至当であるはずだった。 色の青白い、瘠せた、胸の薄い、頭の大きいのと反比例に首筋の小さい、ヒョロヒョロした深谷であった。そのうえ、なんらの事件の・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・―― 彼は、恐しい夢でも見てるような、無気味な気持に囚われながら、追っかけられながら、デッキのボースンの処へ駆けつけた。「駄目だ。ボースン。奴あ死んでるぜ」 彼は監獄から出たての放免囚見たいに、青くなって云った。「何だって!・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・第一おれには不気味で出来ねえ。実は小さい時おれに盗みを教え込もうとした奴があったのだ。だが、どうも不気味だよ。そうは云うものの、おめえ何か旨い為事があるのなら、おれだって一口乗らねえにも限らねえ。やさしい為事だなあ。ちょいとしゃがめば、ちょ・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・ 袋地所で、表は狭く却って裏で間口の広い家であったから、勝ち気な母も不気味がったのは無理のない事だ。又実際、あの頃は近所によく泥棒が入った。私の知って居る丈でも二つ位の話がある。けれども、其等の事件のあったのは、白の居る頃だったろうか、・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・ そして、巨大な現象をつかみながら、作家の主体的角度が消失しているという点こそ、アメリカ現代文学の無気味な点ではなかろうか。「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラの強烈な性格と生活力にかかわらず、バトラーの抜け目なさにかかわらず、彼ら・・・ 宮本百合子 「心に疼く欲求がある」
・・・実物の春夫氏の頭はよく見て知っているにも拘らず、実物とは全く変っている夢の中のその無気味な頭を、誰だかこれが春夫氏の頭だ頭だとしきりに説明をするのである。誰が説明をしているのかと思うと誰もいないのだ。 見ない夢 友人で・・・ 横光利一 「夢もろもろ」
・・・なんだか不気味な言草だ。そうは思ったが一番しまいに云った一言で、その不気味な処は無くなってしまった。兎に角若い婦人が傍にいるのである。別品かもしれない。この退屈な待つ間を面白く過ごすような事でもあれば好いと反謀気も出て来るのである。 フ・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫