・・・……あまつさえ、地震の都から、とぼんとして落ちて来たものの目には、まるで別なる乾坤である。 脊の伸びたのが枯交り、疎になって、蘆が続く……傍の木納屋、苫屋の袖には、しおらしく嫁菜の花が咲残る。……あの戸口には、羽衣を奪われた素裸の天女が・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・それはもちろん風雅の心をもって臨んだ七情万景であり、乾坤の変であるが、しかもそれは不易にして流行のただ中を得たものであり、虚実の境に出入し逍遙するものであろうとするのが蕉門正風のねらいどころである。 不易流行や虚実の弁については古往今来・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・浅草橋も後になし須田町に来掛る程に雷光凄じく街上に閃きて雷鳴止まず雨には風も加りて乾坤いよいよ暗澹たりしが九段を上り半蔵門に至るに及んで空初めて晴る。虹中天に懸り宮溝の垂楊油よりも碧し。住み憂き土地にはあれどわれ時折東京をよしと思うは偶然か・・・ 永井荷風 「夕立」
・・・活殺生死の乾坤を定裏に拈出して、五彩の色相を静中に描く世なり。かく観ずればこの女の運命もあながちに嘆くべきにあらぬを、シャロットの女は何に心を躁がして窓の外なる下界を見んとする。 鏡の長さは五尺に足らぬ。黒鉄の黒きを磨いて本来の白きに帰・・・ 夏目漱石 「薤露行」
月そそぐいずの夜揺れ揺れて流れ行く光りの中に音もなく一人もだし立てば萌え出でし思いのかいわれ葉瑞木となりて空に冲る。乾坤を照し尽す無量光埴の星さえ輝き初め我踏む土は尊や白埴木ぐれに潜む物の・・・ 宮本百合子 「秋の夜」
・・・ 雲は紫に赤にみどりにその帳をかかげて乾坤の間に高笑いする大火輪を見守った。 天もやがてはその火輪に下って来られる也土も皆驚異の目を見はって大きく生れて小さく育ち大きくなっていずこにかもり行く輝きのたまを見た。 金の衣を着、黄金・・・ 宮本百合子 「小鳥の如き我は」
・・・生あるものは総てかく低唱しつつ厚き帳のかなた身じろぐ夜の精を見んと行手すかしつつさぐり見るなり無限の闇の広き宙には乾坤の敗者の歎きと勝者の鬨の声と石棺の底より過去を叫ぶ亡霊のうごめき奇しき形に其の音波・・・ 宮本百合子 「夜」
・・・桜川由次郎、鳥羽屋小三次、十寸見和十、乾坤坊良斎、岩窪北渓、尾の丸小兼、竹内、三竺、喜斎等がその主なるものである。由次郎は後に吉原に遷って二代目善孝と云った。和十は河東節の太夫、良斎は落語家、北渓は狩野家から出て北斎門に入った浮世絵師、竹内・・・ 森鴎外 「細木香以」
出典:青空文庫