・・・ 安は埋めた古井戸の上をば奇麗に地ならしをしたが、五月雨、夕立、二百十日と、大雨の降る時々地面が一尺二尺も凹むので、其の後は縄を引いて人の近かぬよう。私は殊更父母から厳しく云付けられた事を覚えて居る。今一つ残って居る古井戸はこれこそ私が・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ 隣へ通う路次を境に植え付けたる四五本の檜に雲を呼んで、今やんだ五月雨がまたふり出す。丸顔の人はいつか布団を捨てて椽より両足をぶら下げている。「あの木立は枝を卸した事がないと見える。梅雨もだいぶ続いた。よう飽きもせずに降るの」と独り言の・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・蕪村の句多からずといえども、楊州の津も見えそめて雲の峰雲の峰四沢の水の涸れてより 旅意二十日路の背中に立つや雲の峰のごとき皆十分の力あるを覚ゆ。五月雨は芭蕉にも五月雨の雲吹き落せ大井川 芭蕉五月雨・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 数年前、弟が出征したとき、母は、武運長久の願をかけに、山口からわざわざ琴平詣りをした。五月雨のころであった。父にあたる人は七年来の中風で衰弱が目立っていたから、母の琴平詣りも、ほんとうの願がけ一心で、住んでいる町の駅を出たのは夜中のこ・・・ 宮本百合子 「琴平」
・・・気持になってうれしさにまぎれて居たが段々日影も斜になって来るしあう人もまれになると淋しさが身にしみて高く話して居た声もいつかしめってはばかる人もないのに御互に身をよせ合って何か話し合っては※ 五月雨が晴れると急に夏めいてようやく北に・・・ 宮本百合子 「錦木」
・・・おもしろうてやがてかなしき鵜飼かな馬をさへながむる雪のあした哉住つかぬ旅の心や置炬燵うき我をさびしがらせよかんこ鳥 雄大、優婉な趣は、辛崎の松は花より朧にて五月雨にかくれぬものや瀬田の橋暑き日・・・ 宮本百合子 「芭蕉について」
・・・そうなるともうすぐに五月雨の季節である。栗の花や椎の花が黄金色に輝いて人目をひくのはそのころである。 松のみどりがだんだん目につくようになってくるのも、そのころからであったと思う。新芽の先についた花から黄色の花粉のこぼれるのが見えたと思・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫