・・・ 自分は持て来た小説を懐から出して心長閑に読んで居ると、日は暖かに照り空は高く晴れ此処よりは海も見えず、人声も聞えず、汀に転がる波音の穏かに重々しく聞える外は四囲寂然として居るので、何時しか心を全然書籍に取られて了った。 然にふと物・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・日暮れて間もなきに問屋三軒皆な戸ざして人影絶え人声なし。源叔父は眼閉じて歩み我家の前に来たりし時、丸き眼みはりてあたりを見廻わしぬ。「我子よ今帰りしぞ」と呼び櫓置くべきところに櫓置きて内に入りぬ。家内暗し。「こはいかに、わが子よ今帰・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 小山は黙って描く、自分は黙って煙草をふかす、四囲は寂然として人声を聞かない。自分は懐から詩集を取り出して読みだした。頭の上を風の吹き過ぎるごとに、楢の枯れ葉の磨れ合う音ががさがさとするばかり。元来この楢はあまり風流な木でない。その枝は・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・ 丘の下でどっか人声がするようだった。三十すぎの婦人の声だ。それに一人は日本人らしい。何を云っているのかな。彼はちょいと立止まった。なんでも声が、ガーリヤの母親に似ているような気がした。が、声は、もうぷっつり聞えなかった。すると、まもな・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ 隣家を外から伺うと、人声一つせず、ひっそりと静まりかえっていた。たゞ、鶏がコツ/\餌を拾っているばかりだ。すべてがいつもと変っていなかった。でも彼は、反物が気にかゝって落ちつけなかった。 彼は家のぐるりを一周して納屋へ這入って見た・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・そして、四五人の人声が伝って来た。「誰れだい、たったこれっぽちしか入れてねえんは。」市三が、さきに押して来てあった鉱車を指さして、役員の阿見が、まつ毛の濃い奥目で、そこら中を睨めまわしていた。「いくら少ないとてケージは、やっぱし一ツ分占・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・そうするといずくからともなく人声が聞えるようなので、もとより人も通わぬこんなところで人声を聞こうとも思いがけなかった源三は、一度は愕然として驚いたが耳を澄まして聞いていると、上の方からだんだんと近づいて来るその話声は、復び思いがけ無くもたし・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・種々な楽器の音や特に昔から問題となっている人声母音の組成要素を分析し研究するに適当な材料としてこの蝋管記録が種々に利用された。蝋管に刻まれた微細な凹凸を巧妙な仕掛けで郭大した曲線を調和分析にかけて組成因子の間の関係を調べたりして声音学上の知・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・台所に杯盤の音、戸口に見送りの人声、はや出立たんと吸物の前にすわれば床の間の三宝に枳殼飾りし親の情先ず有難く、この枳殼誤って足にかけたれば取りかえてよと云う人の情もうれし。盃一順。早く行て船室へ場を取りませねばと立上がれば婢僕親戚上り框に集・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・室の入口の外の廊下には色々の人声がしていた、長岡先生のいつものような元気のいい改まった言葉も聞えた、真鍋さんが何か云うと佐野さんの愉快そうに笑う声も聞えた。金子さんも時々見に来てくれて親切に世話をやいてくれた。三浦内科に空室があるので午後三・・・ 寺田寅彦 「病中記」
出典:青空文庫