・・・「旦那様は今晩も御帰りにならないのでございますか?」 これはその側の卓子の上に、紅茶の道具を片づけている召使いの老女の言葉であった。「ああ、今夜もまた寂しいわね。」「せめて奥様が御病気でないと、心丈夫でございますけれども――・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・その鸚鵡が僕を見ると、「今晩は」と云ったのも忘れられない。軒の下には宙に吊った、小さな木鶴の一双いが、煙の立つ線香を啣えている。窓の中を覗いて見ると、几の上の古銅瓶に、孔雀の尾が何本も挿してある。その側にある筆硯類は、いずれも清楚と云うほか・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・ が、開き直って、今晩は、環海ビルジングにおいて、そんじょその辺の芸妓連中、音曲のおさらいこれあり、頼まれました義理かたがた、ちょいと顔を見に参らねばなりませぬ。思切って、ぺろ兀の爺さんが、肥った若い妓にしなだれたのか、浅葱の襟をしめつ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 何しろ、まあ、御緩りなすって、いずれ今晩は手前どもへ御一泊下さいましょうで。」 と膝をすっと手先で撫でて、取澄ました風をしたのは、それに極った、という体を、仕方で見せたものである。 「串戯じゃない。」と余りその見透いた世辞の苦・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・障子の外から省作が、「今晩は、お湯をもらいに出ました」「まア省作さんですかい。ちとお上がんさい。今大話があるとこです」 というのは清さんのお袋だ。喜兵衛どんの婆さんもいる。五郎兵衛どんの婆さんもいる。七兵衛の爺さんもいた。みんな・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・『はい、今晩は』ッて、澄ましてお客さんの座敷へはいって来て、踊りがすむと、『姉さん、御祝儀は』ッて催促するの。小癪な子よ。芝居は好きだから、あたいよく仕込んでやる、わ」 吉弥はすぐ乗り気になって、いよいよそうと定まれば、知り合いの待合や・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・或る楼へ遊びに行ったら、正太夫という人が度々遊びに来る、今晩も来ていますというゆえ、その正太夫という人を是非見せてくれと頼んで、廊下鳶をして障子の隙から窃と覗いて見たら、デクデク肥った男が三枚も蒲団を重ねて木魚然と安座をかいて納まり返ってい・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・そのときに友人が来ましてカーライルに遇ったところが、カーライルがその話をしたら「実に結構な書物だ、今晩一読を許してもらいたい」といった。そのときにカーライルは自分の書いたものはつまらないものだと思って人の批評を仰ぎたいと思ったから、貸してや・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・「今晩は、今晩は。」と、あや子と女中は、かわるがわるにいって、その戸をたたきました。するとやっと、ことことと人の出てくるけはいがしました。そして戸が開いて、「だれですかえ。」と、頭の髪の白いおばあさんが顔を出していいました。「海・・・ 小川未明 「海ほおずき」
・・・ しかし太郎は、どうしても、おじいさんが、今晩泊まってこられるとは信じませんでした。「きっと、おじいさんは、帰ってきなさる。それまで自分は起きて待っているのだ。」と、心にきめて、暗くなってしまってからも、その夜にかぎって、太郎は、床・・・ 小川未明 「大きなかに」
出典:青空文庫