・・・ことにも江戸は半丁あるくと他郷だと言われるほどの籠みあったところなのに、こうしてせまい居酒屋に同日同時刻に落ち合せたというのは不思議なくらいです。太郎は大きいあくびをしてから、のろのろ答えた。おれは酒が好きだから呑むのだよ。そんなに人の顔を・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・始めての他郷の空で、某病院の二階のゴワゴワする寝台に寝ながら窓の桜の朧月を見た時はさすがに心細いと思った。ちょうど二学期の試験のすぐ前であったが、忙しい中から同郷の友達等が入り代り見舞に来てくれ、みんな足しない身銭を切って菓子だの果物だのと・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・そして他郷に遊学すると同時にやめてしまって、今日までついぞ絵筆を握る機会はなかった。もと使った絵の具箱やパレットや画架なども、数年前国の家を引き払う時に、もうこんなものはいるまいと言って、自分の知らぬ間に、母がくず屋にやってしまったくらいで・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・十九の年に中学を出てから他郷に流寓した。妻を迎えて東京をあっちこっちと移り住んだ。その間に年に一度ぐらい帰省するそのたびにこの少女像は昔のままに同じ間に同じ姿勢のままに合掌して聖母像を見守っていたのである。 父がなくなってから郷里の家を・・・ 寺田寅彦 「青衣童女像」
・・・鳴き立てる話と、他郷に流寓して故郷に帰って見ると家がすっかり焼けて灰ばかりになっていた話ぐらいなものである。そうしてこの牝鶏と帰郷者との二つの悪夢はその後何十年の自分の生活に付きまとって、今でも自分を脅かすのである。そのころ福沢翁の著わした・・・ 寺田寅彦 「読書の今昔」
・・・ 他郷に漂浪してもこの絵だけは捨てずに持って来た。額縁も古ぼけ、紙も大分煤けたようだが、「森の絵」はいつでも新しい。 寺田寅彦 「森の絵」
・・・されば始めて逢う他郷の暮春と初夏との風景は、病後の少年に幽愁の詩趣なるものを教えずにはいなかったわけである。 病院は町はずれの小高い岡の中腹に建てられていたので、病室の窓からも寝ながらにして、曇った日にも伊豆の山影を望み、晴れた日には大・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・わたくしは果してよくケーベル先生やハーン先生のように一生涯他郷に住み晏如としてその国の土になることができるであろうか。中途で帰りたくなりはしまいか。瀕死の境に至っておめおめ帰りたくなるような事が起るくらいならば、移住を思立つにも及ぶまい。ど・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・そう云う心持になっていて、今飾磨屋と云う男を見ているうちに、僕はなんだか他郷で故人に逢うような心持がして来た。傍観者が傍観者を認めたような心持がしてきた。 僕は飾磨屋の前生涯を知らない。あの男が少壮にして鉅万の富を譲り受けた時、どう云う・・・ 森鴎外 「百物語」
出典:青空文庫