・・・もうそれより外に、まかない棒という名の付きそうな棒はなかった。彼は、その棒を持って、焚き火の方へ行って、古江の傍に黙って立って居た。「持って来たんかい。」 古江の鬚面は焚き火で紅くほてっていた。「は。」 十人ばかりの焚き火を・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・だから他郷へ出て苦労をするにしても、それそれの道順を踏まなければ、ただあっちこっちでこづき廻されて無駄に苦しい思をするばかり、そのうちにあ碌で無い智慧の方が付きがちのものだから、まあまあ無暗に広い世間へ出たって好いことは無い、源さんも辛いだ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 蓋付きの茶碗二個。皿一枚。ワッパ一箇。箸一ぜん。――それだけ入っている食器箱。フキン一枚。土瓶。湯呑茶碗一個。 黒い漆塗の便器。洗面器。清水桶。排水桶。ヒシャク一個。 縁のない畳一枚。玩具のような足の低い蚊帳。 それに番号・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ある社で計画した今度の新しい叢書は著作者の顔触れも広く取り入れてあるもので、その中には私の先輩の名も見え、私の友だちの名も見えるが、菊版三段組み、六号活字、総振り仮名付きで、一冊三四百ぺージもあるものを思い切った安い定価で予約応募者にわかと・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・その歩き付きを見る。その靴や着物の値ぶみをする。それをみな心配げな、真率な、忙しく右左へ動く目でするのである。顔は鋭い空気に晒されて、少なくも六十年を経ている。骨折沢山の生涯のために流した毒々しい汗で腐蝕せられて、褐色になっている。この顔は・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・そして歩き付きが意気だわ。お前さんまだあの人の上沓を穿いて歩くとこは見たことがないでしょう。御覧よ。こうして歩くのだわ。それからおこるとね、こんな風に足踏をしてよ。「なんという下女だい。いつまで立っても珈琲の・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・老大家のような落ち付きを真似して、静かに酒を飲んでいたのであるが、酔って来たら、からきし駄目になった。 与太者らしい二人の客を相手にして、「愛とは、何だ。わかるか? 愛とは、義務の遂行である。悲しいね。またいう、愛とは、道徳の固守である・・・ 太宰治 「作家の像」
・・・私はほとんど無意識にそれを取り上げて見ているうちに、その紙の上に現われている色々の斑点が眼に付き出した。 紙の色は鈍い鼠色で、ちょうど子供等の手工に使う粘土のような色をしている。片側は滑かであるが、裏側はずいぶんざらざらして荒筵のような・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・いわゆる付き過ぎた連句は、結局一句を二つに分けただけで「歩み」はない。同様に映画においても、たとえば単調なる「チャンバラ」の場面はいくら続いても、それは結局ただ一つのショットとしての効果しかない。これに反してたとえ識閾の上では単調な画面を繰・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・珍々先生は生れ付きの旋毛曲り、親に見放され、学校は追出され、その後は白浪物の主人公のような心持になってとにかくに強いもの、えばるものが大嫌いであったから、自然と巧ずして若い時分から売春婦には惚れられがちであった。しかしこういう業つくばりの男・・・ 永井荷風 「妾宅」
出典:青空文庫