いとうげんぼく【伊東玄朴】
[1801〜1871]江戸末期の蘭方医。肥前の人。シーボルトに師事し、江戸に出て開業。牛痘苗による接種に成功し、同志とともに種痘所を開設。のち幕府の奥医師。
いとうし【伊東市】
⇒伊東
いとうしずお【伊東静雄】
[1906〜1953]詩人。長崎の生まれ。「コギト」「四季」「日本浪曼派」同人。詩集に「わがひとに与ふる哀歌」「夏花」など。
いとうしんすい【伊東深水】
[1898〜1972]日本画家。東京の生まれ。本名、一 (はじめ) 。鏑木清方 (かぶらぎきよかた) に師事し、浮世絵の伝統を受け継いだ風俗画、特に美人画で知られる。大正期には挿絵・口絵を描き、また新版画運動に参加し、版下絵を制作。芸術院会員。
いとうすけちか【伊東祐親】
[?〜1182]平安後期の武将。伊豆の人。河津二郎と称した。平氏に味方して源頼朝と戦ったが、捕らえられて自殺。曽我兄弟の祖父。
いとうすけゆき【伊東祐亨】
[1843〜1914]元帥・海軍大将。鹿児島の生まれ。日清戦争時の連合艦隊司令長官。日露戦争では大本営海軍幕僚長。
いとうちゅうた【伊東忠太】
[1867〜1954]建築学者。山形の生まれ。東大教授。日本の古建築や中国・インドの遺跡を調査し、建築史学を樹立。明治神宮・平安神宮・築地本願寺などを設計。文化勲章受章。著「法隆寺建築論」など。
いとうマンショ【伊東満所】
[1569ころ〜1612]《マンショ(Mancio)は洗礼名》天正遣欧使節の正使の一人。大友宗麟 (おおともそうりん) の姪の孫といわれるが確かではない。帰国後、イエズス会に入り、のち司祭。
いとうみよじ【伊東巳代治】
[1857〜1934]政治家。長崎の生まれ。伊藤博文に認められ、明治憲法の制定に参画。伊藤内閣の書記官長・農商務相を歴任。東京日日新聞社社長として、政府擁護の論陣を張った。のち、枢密顧問官。
いとうつとむ【伊東勤】
[1962〜 ]プロ野球選手・監督。熊本の生まれ。昭和57年(1982)、西武ライオンズに入団。捕手として西武の黄金期を支え、8度の日本一を経験。引退後は同球団の監督に就任し、チームを日本一に導いた。