・・・ 声をかけたのは三十前後の、眼の鋭い、口髭の不似合な、長顔の男だった。農民の間で長顔の男を見るのは、豚の中で馬の顔を見るようなものだった。彼れの心は緊張しながらもその男の顔を珍らしげに見入らない訳には行かなかった。彼れは辞儀一つしなかっ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・――気の籠もった優しい眉の両方を、懐紙でひたと隠して、大きな瞳でじっと視て、「……似合いますか。」 と、莞爾した歯が黒い。と、莞爾しながら、褄を合わせざまにすっくりと立った。顔が鴨居に、すらすらと丈が伸びた。 境は胸が飛んで、腰・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ 女は袂の端を掴み、新派の女優めいた恰好で、ハンカチを振った。似合いの夫婦に見えた。 織田作之助 「秋深き」
・・・鉄ちゃんは須田町の近くの魚屋の伜で十九歳、浅黒い顔に角刈りが似合い、痩せぎすの体つきもどこかいなせであった。 やがて安子と鉄ちゃんの仲が怪しいという噂が両親の耳にはいった。縁日の夜、不動様の暗がりで抱き合っていたという者もあり、鉄ちゃん・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・それにしてはなんという不似合いな客であったろう。私はただ村の郵便局まで来て疲れたというばかりの人間に過ぎないのだった。 日はもう傾いていた。私には何の感想もなかった。ただ私の疲労をまぎらしてゆく快い自動車の動揺ばかりがあった。村の人が背・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・この先生に不似合いなことを時々言ってそうして自分でこんなふうな笑いかたをするのがこの人の癖の一つである。『そううまくは行かないサ、ハハハハ、イヤそんなら行って来ようか、ご苦労な話だ、』と江藤が立ち上がろうとする時、生垣の外で、『昨夜・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・しかし親戚や友人が止めたように、八年前の彼は二十に成るおせんを妻にして、そう不似合な夫婦がそこへ出来上るとも思っていなかった。活気と、精力と、無限の欲望とは、今だに彼を壮年のように思わせている。まして八年前。その証拠には、おせんと並んで歩い・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・何せ、あれの嫁は、あれには不似合いなほどの美人なんだから、必ず家へ帰る。そこで、あなたに一つお願いがある。あなたは、あの夫婦の媒妁人だった筈だし、また、かねてからあの夫婦は、あなたを非常に尊敬している。いや、ひやかしているのでは、ありません・・・ 太宰治 「嘘」
・・・羽織も着物も同じ矢絣模様の銘仙で、うすあかい外国製の布切のショオルが、不似合いに大きくその上半身を覆っていた。質屋の少し手前で夫婦はわかれた。 真昼の荻窪の駅には、ひそひそ人が出はいりしていた。嘉七は、駅のまえにだまって立って煙草をふか・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・魔法使いに、白線ついた制帽は不似合いと思ったのかも知れません。「オペラの怪人」という綽名を友人達から貰って、顔をしかめ、けれども内心まんざらでもないのでした。もう一枚のマントはプリンス・オヴ・ウエルスの、海軍将校としてのあの御姿を美しいと思・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
出典:青空文庫