・・・達雄は放心したようにじっと手紙を見つめている。何だかその行の間に妙子の西洋間が見えるような気がする。ピアノの蓋に電燈の映った「わたしたちの巣」が見えるような気がする。…… 主筆 ちょっともの足りない気もしますが、とにかく近来の傑作ですよ・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・彼れは自分で何が何だかちっとも分らなかった。彼れは夢遊病者のように人の間を押分けて歩いて行った。事務所の角まで来ると何という事なしにいきなり路の小石を二つ三つ掴んで入口の硝子戸にたたきつけた。三枚ほどの硝子は微塵にくだけて飛び散った。彼れは・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・革紐が一本切れる。何だかしゅうというような音がする。フレンチは気の遠くなるのを覚えた。髪の毛の焦げるような臭と、今一つ何だか分からない臭とがする。体が顫え罷んだ。「待て。」 白い姿は動かない。黒い上衣を着た医者が死人に近づいてその体・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・人に摩られる時はまだ何だか苦痛を覚える。何か己の享けるはずでない事を享けるというような心持であった。クサカはまだ人に諂う事を知らぬ。余所の犬は後脚で立ったり、膝なぞに体を摩り付けたり、嬉しそうに吠えたりするが、クサカはそれが出来ない。 ・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・「ここが開いていちゃ寒いでしょう。」「何だかぞくぞくするようね、悪い陽気だ。」 と火鉢を前へ。「開ッ放しておくからさ。」「でもお民さん、貴女が居るのに、そこを閉めておくのは気になります。」 時に燈に近う来た。瞼に颯と・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・「そうですねイ、わたし何だか夢の様な気がするの。今朝家を出る時はほんとに極りが悪くて……嫂さんには変な眼つきで視られる、お増には冷かされる、私はのぼせてしまいました。政夫さんは平気でいるから憎らしかったわ」「僕だって平気なもんですか・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・どんな顔をしていたろうと思いめぐらしていると、段々それが友人の皮肉な寂しい顔に見えて来て、――僕は決して夢を見たのではない――その声高いいびきを聴くと、僕は何だか友人と床を並べて寝ている気がしないで、一種威厳ある将軍の床に侍っている様な気が・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・『平凡』の一節に「新内でも清元でも上手の歌うのを聞いてると、何だかこう国民の精粋というようなものが髣髴としてイキな声や微妙の節廻しの上に現れて、わが心の底に潜む何かに触れて何かが想い出されて何ともいえぬ懐かしい心持になる。私はこれを日本国民・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ こうなると、人間というものは妙に引け身になるもので、いつまでも一所にいると、何だか人に怪まれそうで気が尤める。で、私は見たくもない寺や社や、名ある建物などあちこち見て廻ったが、そのうちに足は疲れる。それに大阪鮨六片でやっと空腹を凌いで・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・年が先輩から、まず志賀直哉を読めと忠告されて読んでみても、どうにも面白くなくて、正直にその旨言うと、あれが判らぬようでは困るな、勉強が足らんのだよと嘲笑され、頭をかきながら引き下って読んでいるうちに、何だか面白くないが立派なものらしいという・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
出典:青空文庫