・・・僕は或る夏の暮れ方、本所の一の橋のそばの共同便所へ入つた。その便所を出て見ると、雨がぽつ/\降り出してゐた。その時、一の橋とたてがはの川の色とは、そつくり広重だつたといつてもいゝ。しかし、さういふ景色に打突かることは、まあ、非常に稀だらうと・・・ 芥川竜之介 「東京に生れて」
・・・私はその人の間を縫いながら、便所から帰って参りましたが、あの弧状になっている廊下が、玄関の前へ出る所で、予期した通り私の視線は、向うの廊下の壁によりかかるようにして立っている、妻の姿に落ちました。妻は、明い電燈の光がまぶしいように、つつまし・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・彼れの気分にふさわない重苦しさが漲って、運送店の店先に較べては何から何まで便所のように穢かった。彼は黙ったままで唾をはき捨てながら馬の始末をするとすぐまた外に出た。雨は膚まで沁み徹ってぞくぞく寒かった。彼れの癇癪は更らにつのった。彼れはすた・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・政治狂が便所わきの雨樋の朽ちた奴を……一雨ぐらいじゃ直ぐ乾く……握り壊して来る間に、お雪さんは、茸に敷いた山草を、あの小石の前へ挿しましたっけ。古新聞で火をつけて、金網をかけました。処で、火気は当るまいが、溢出ようが、皆引掴んで頬張る気だか・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・と屋鳴りのするような咳払を響かせた、便所の裡で。「熊沢はここに居るぞう。」「まあ。」「随分ですこと、ほほほ。」 と家主のお妾が、次の室を台所へ通がかりに笑って行くと、お千さんが俯向いて、莞爾して、「余り色気がなさ過ぎるわ・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・「はま……だれかおれを呼んだら、便所にいるってそういえよ」「いや裏の畑に立ってるってそういってやらア」「このあまめ」 省作は例の手段で便所策を弄し、背戸の桑畑へ出てしばらく召集を避けてる。はたして兄がしきりと呼んだけれど、は・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・岡村は遂に其機会を与えない。予も少しくぼんやりして居ると、「君茶がさめるからやってくれ給え。オイ早く持ってこないか」 家中静かで返辞の声もない。岡村は便所へでもゆくのか、立って奥へ這入って行った。挨拶などは固よりお流れである。考えて・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ しばらくしてはしご段をとんとんおりたものがあるので、下座敷からちょッと顔を出すと、吉弥が便所にはいるうしろ姿が見えた。 誰れにでもああだろうと思うと、今さらのようにあの粗い肌が連想され、僕自身の身の毛もよだつと同時に、自分の心がす・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・「姐さん、あの、便所はどちらですの?」「便所ですか? 御案内しましょう」「はばかりさま」 女中は茶盆を持ってお光を案内する。 しばらくすると、奇麗に茶道具を洗い揚げて持って来たが、ニヤニヤと変に笑いながら、「ちょいと、あ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・道頓堀川の岸へ下って行く階段の下の青いペンキ塗の建物は共同便所でした。芋を売る店があり、小間物屋があり、呉服屋があった。「まからんや」という帯専門のその店の前で、浜子は永いこと立っていました。 新次はしょっちゅう来馴れていて、二つ井戸な・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫