・・・何、黒山の中の赤帽で、そこに腕組をしつつ、うしろ向きに凭掛っていたが、宗吉が顔を出したのを、茶色のちょんぼり髯を生した小白い横顔で、じろりと撓めると、「上りは停電……下りは故障です。」 と、人の顔さえ見れば、返事はこう言うものと極め・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ よしんば雨のための停電にせよ、まるでわざとのような停電のような気がした。 しかし、べつに何ごとも起らなかった。いきなり誰かが飛び掛って来そうな気配もない。 してみれば、ただ、門燈が何となく消えたというに過ぎなかったのだ。が、や・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・この感情を思い浮かべるためには、われわれが都会で経験する停電を思い出してみればいい。停電して部屋が真暗になってしまうと、われわれは最初なんともいえない不快な気持になる。しかしちょっと気を変えて呑気でいてやれと思うと同時に、その暗闇は電燈の下・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・「かまいませんわ。そのほうが簡単でいいわ。」「キクちゃんも、時々やるんじゃねえか。」 私は立上って、電燈のスイッチをひねった。つかない。「停電ですの。」 とキクちゃんが小声で言った。 私は手さぐりで、そろそろ窓のほう・・・ 太宰治 「朝」
・・・ スズメが部屋から出て行ったとたんに、停電。まっくら闇の中で、鶴は、にわかにおそろしくなった。ひそひそ何か話声が聞える。しかし、それは空耳だった。廊下で、忍ぶ足音が聞える。しかし、それも空耳であった。鶴は呼吸が苦しく、大声挙げて泣きたい・・・ 太宰治 「犯人」
・・・そうしてもっと甚だしい、もっと永続きのする断水や停電の可能性がいつでも目前にある事は考えない。 人間はいつ死ぬか分らぬように器械はいつ故障が起るか分らない。殊に日本で出来た品物には誤魔化しが多いから猶更である。 ランプが見付からない・・・ 寺田寅彦 「石油ランプ」
・・・用があれば停電しがちの電車にも乗ろう。自動車にも乗ろう。園遊会にも行こう。浪花節も聞こう。女優の鞦韆も下からのぞこう。沙翁劇も見よう。洋楽入りの長唄も聞こう。頼まれれば小説も書こう。粗悪な紙に誤植だらけの印刷も結構至極と喜ぼう。それに対する・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・「また喰ったんだ。停電にちげえねえ。」 糸織の羽織に雪駄ばきの商人が臘虎の襟巻した赧ら顔の連れなる爺を顧みた。萌黄の小包を首にかけた小僧が逸早く飛出して、「やア、電車の行列だ。先の見えねえほど続いてらア。」と叫ぶ。 車掌が革包を・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・交通事情は目に見えて悪化し、これまでより長い時間をかけてやっと帰宅して、これまでよりもっともっと苦労した燃料でやっと炊事をして、さてようようほっとしようとしたときは、停電だったり、たった二十燭のあかりだったりして、つぎものをするのも不便だし・・・ 宮本百合子 「婦人大会にお集りの皆様へ」
このごろ停電する夜の暗さをかこっている私に知人がランプを持って来てくれた。高さ一尺あまりの小さな置きランプである。私はそれを手にとって眺めていると、冷え凍っている私の胸の底から、ほとほとと音立てて燃えてくるものがあった。久しくそれは聞・・・ 横光利一 「洋灯」
出典:青空文庫