・・・作者がいかに豊富なる想像力の所有者であってもその時代を偽り描くということは到底不可能な仕事だからである。それで、ちょうど、ある弾丸の描く弾道はまた同時に他のすべての可能な弾道を代表するように、一遊星の軌道はまさしく天体引力の方則を代表するよ・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・また『武道伝来記』には、ある武士が人魚を射とめたというのを意地悪の男がそれを偽りだという。それを第三者が批評して「貴殿広き世界を三百石の屋敷のうちに見らるゝ故なり。山海万里のうちに異風なる生類の有まじき事に非ず」と云ったとしてある。その他に・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・ほとんど人跡未到な山の中の道のない所に道を求めあらゆる危険を冒しても一本の線にも偽りを描かないようにというその科学的日本魂のおかげであの信用できる地形図が仕上がるのである。そういう辛酸をなめた文化の貢献者がどこのだれかということは測量部員以・・・ 寺田寅彦 「地図をながめて」
・・・何をあかしに、何の罪を数えんとはする。詐りは天も照覧あれ」と繊き手を抜け出でよと空高く挙げる。「罪は一つ。ランスロットに聞け。あかしはあれぞ」と鷹の眼を後ろに投ぐれば、並びたる十二人は悉く右の手を高く差し上げつつ、「神も知る、罪は逃れず・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・前説明した言葉を用いて評すれば、そういう作物にはどこか不道徳の分子がある、すなわちどこか非芸術のところがある、すなわちどこか偽りを書いているのだという事に帰着するのです。ありのままの本当をありのままに書く正直という美徳があればそれが自然と芸・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・心の影を。心の影を偽りと云うが偽り」女静かに歌いやんで、ウィリアムの方を顧みる。ウィリアムは瞬きもせず女の顔を打ち守る。「恋に口惜しき命の占を、盾に問えかし、まぼろしの盾」 ウィリアムは崖を飛ぶ牡鹿の如く、踵をめぐらして、盾をとって・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・国家主義を奨励するのはいくらしても差支ないが、事実できない事をあたかも国家のためにするごとくに装うのは偽りである。――私の答弁はざっとこんなものでありました。 いったい国家というものが危くなれば誰だって国家の安否を考えないものは一人もな・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・君が僕と共にしたのは、夜昼とない無意味の対話、同じ人との交際、一人の女を相手にしての偽りの恋に過ぎぬ。共にしたとはいうけれど、譬えば一家の主僕がその家を、輿を、犬を、三度の食事を、鞭を共にしていると変った事はない。一人のためにはその家は喜見・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・これも偽りない事実ではないだろうか。 この感じは、新しく日本がおかれた世界の道にたいする懐疑から生じているものでないことは明かである。われわれ人民が、理不尽な暴力で導きこまれた肉体と精神との殺戮が、旧支配力の敗退によって終りを告げ、よう・・・ 宮本百合子 「歌声よ、おこれ」
・・・作者は、忠直卿という若い激しい性格の封建の主君が、君臣関係のしきたりによって自分がおかれている偽りの世界への憤懣から遂に狂猛な暴君のようになり、隠居とともに天空快闊となった次第を語っている。作者は忠直卿とともに、人間関係の真率、偽りなさ、ま・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
出典:青空文庫